徳川秀忠と松平忠吉の誕生(「どうする家康」100)
「どうする家康」第27回では、お愛と一緒に二人の男子(長丸と福松丸)が登場しました。長丸は家康の三男でのちの徳川秀忠で、福松丸は四男でのちの松平忠吉です。
徳川秀忠は、天正7年(1579)4月7日に、家康の三男として浜松城で生まれました。母は側室「お愛の方(西郷局)」です。「お愛の方(西郷局)」については、既に以前書いていますので、下記記事をご参照ください。
秀忠は、幼名を長丸といいました。この幼名について、黒田基樹氏は、「家康はこれを新たな『長男』と認識したのではなかったか」(『家康の正妻築山殿』p194)と興味深い見解を述べています。
秀忠は三男でしたので、通常は家督を継承することはありませんでした。しかし、秀忠が誕生した天正7年は、家康の正妻築山殿と嫡男信康を失うと言う事件が起きる年で、築山殿の殺害は8月29日とされ、信康は9月15日に切腹しています。この二人の死去の直前に生れた秀忠は、徳川家にとって長男ともいえる重要な男子と考えてもおかしくはない存在でした。「長丸」という幼名にはそうした意味合いもあったと思われます。
しかし、秀忠の上には秀康という兄がいますので、この秀康の存在が気になります。もともと秀康の母お万は家康の正妻たる築山殿が認めた側室でないため、秀康は誕生当時は家康の子供としても認知されていなかったという事情がありますので、家康の世継としては考えられていなかったかもしれません。現に秀康は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、秀吉の養子として大坂城に送られます。そして、秀吉の命令により、天正18年(1590)、北関東の名門結城家の養子となり、結城秀康と名乗るようになります。
一方、秀忠は、『台徳院殿御実紀(いわゆる「徳川実紀」)』には、天正11年(1583)正月元日に、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃五か国の武士たちが浜松城に参集して新年の年賀を奏上した際、家康とともに拝賀を受けたと書いてあります。そして、「(秀忠は)その時より世子となったと考えられる」と『徳川実紀』に書かれていますので、天正12年から家康の後継者として認識されるようになったと思われます。
秀忠は天正18年(1590)正月に、まだ豊臣秀吉と対面していないので秀吉に対面するという名目で聚楽第に向かいます。そして、聚楽第で元服し秀吉から「秀」の一字を拝領して秀忠と名乗りました。秀忠の「忠」は家康の父広忠の「忠」と考えられています。
なお、この時、家康は秀忠を実質的な人質として差し出したつもりだったようです。しかし、秀忠は13日に入京したものの17日には京都を出発していて京都滞在は5日間という短い期間でした。思いがけず早く駿府に帰ってきていますが、これは『改正三河後風土記』によれば、小田原攻略に際して家康の領国の城を利用しようと言う秀吉の考えがあったためだったとされています。
松平忠吉(幼名福松丸)は、天正8年(1580)9月10日に生れています。秀忠とは年子ということになります。誕生の翌年天正9年(1581)に東条松平家当主の松平家忠(※『家忠日記」を書いた松平家忠とは別人)が亡くなったとため、その養子となり家督を継いで三河東条城主となり、松平姓を名乗りました。後のことになりますが、天正18年(1590)の北条氏が滅亡したあと家康が関東に入国した際、忍城10万石の城主となり、関ヶ原の戦いの際には、松平忠吉は、岳父(正妻の父)井伊直政とともに先駆けし武功をあげたことで有名です。ただ、「どうする家康」では、成人した後の徳川秀忠とともに松平忠吉も出演者が発表されていないので、成人後の二人が果たして登場するのかはっきりしていません。しかし、登場しないはずはないと思いますがどうなるのでしょうか。