甲斐の恵林寺、織田信忠に焼き討ちされ、徳川家康により再建される。(「どうする家康」101)
「どうする家康」に描かれたわけではありませんが、武田家滅亡の際に恵林寺が焼き討ちにあい、住職の快川(かいせん)和尚が山門で焼き殺され、その際「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と唱えたという話は有名です。そこで、今日は、その話を書こうと思います。
そもそも恵林寺は、その御由緒によれば、臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄の地頭職二階堂出羽守貞藤、道号は道蘊(どううん)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建された寺院です。
その後、武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)に、信玄が寺領を寄進し自らの菩提寺と定めました。そして、天正4年(1576)4月には、信玄の遺言に従い三年間の秘喪の後、武田勝頼により、快川和尚の導師のもと信玄の盛大な葬儀が恵林寺で執り行われています。
しかし、天正10年(1582)4月3日、恵林寺は焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに焼殺されました。
この恵林寺の焼き討ちは、織田信長が行ったと考える人が多いように思います。恵林寺のホームページでも「4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい」と書かれています。しかし、恵林寺の焼き討ちを指示したのは織田信忠でした。『信長公記』には次のように書かれています。
4月3日 (織田信長が甲府の武田信玄の屋形に新しく作った仮御殿に着陣したことが書かれた後)恵林寺において六角義治を匿ったので、その罪に対して織田信忠卿より、処罰の命令が下された。恵林寺僧衆成敗の奉行人は、津田元嘉、長谷川丹波守、関小十郎右衛門、赤座七郎右衛門であった。
右の奉行衆が出動し、寺中の老若僧侶を残さず恵林寺山門階上へ呼び集め、楼門から山門にかけて籠草を積み上げ、火を付けた。初めは黒煙が立ちのばり、内部の様子がわからなかったが、次第に煙が収まって炎が燃え上がると、人の姿が見えるようになった。快川紹喜(かいせんじょうき)長老はまったく動揺することなく、座したまま微動だにしなかった。そのほかの老若、稚児、若衆は躍(おど)り上がり跳ね上がり、互いに抱き付き、悶え焦がれていた。焦熱地獄、大焦熱地獄の炎に咽(むせ)び、火血刀(かけつとう)の苦を悲しむありさまは、見るに堪えなかった。4月3日、 恵林寺は破滅した。老若上下の者150余人が焼き殺された。」(『訳注信長公記』より)
『信長公記』によれば、恵林寺が焼き討ちにあったのは、佐々木義治を匿ったことによるもので、織田信忠の命令によるものと書かれています。ただ、恵林寺が焼き討ちされた4月3日は、織田信長が甲府に着陣しているので、織田信長の命令によるものと誤って受け止められたのではないでしょうか。しかし、恵林寺の焼き討ちは織田信長が直接指揮したものでないとしても信長の意向がかなり織り込まれた処罰だとは思います。
恵林寺の焼き討ちについては『武田氏滅亡』(平山優著)に『甲乱記』という書物に詳しく書かれていると書いてあるので、国立国会図書館デジタルコレクションで『甲乱記』を読んでみました。すると『甲乱記』の「恵林寺炎減並び織田信長の事」のなかに次のように書かれています。
「(前略)恵林寺は今度の甲州の大乱の時にことごとく炎滅した。川尻秀隆が使者を通じて、この度勝頼父子が自害した際に、許可なく死骸を埋葬し、追善供養した事、次に近江国の佐々木義定などを寺院内に匿ったこと、さらに小屋銭を架けた事の三か条は仏門の本来の役割に背いたものでありその罪は軽いものではないと詰問した。快川和尚は、勝頼父子は当寺の旦那であり、殊には国主であるので遺骨を拾って追善した。また佐々木義定を寺内に隱していたことや小屋餞のことはまったく知らないことであるとの返答であった。それに対して使者は、それではお寺の中を探すと言い、武士が寺内に侵入し、「僧侶たちは山門へあがれ」といったので快川和尚をはじめ多くの僧侶が山門に登った。その他の寺内にいる者たちも全員山門に上った。その後、梯子をはずし、門前の草屋を壊したものを山門の下に積み重ね、それに火を付けた。(中略)快川和尚は、結跏趺坐、手を常に胸にあてる静かにしているだけであった。その他の若い僧たちは刺し違えたり、炎の中に飛び込んで死んだものもありあるいは柱に抱き付いてそのまま焼死したものあった。」と書いてあります。
まさに恵林寺にいる僧侶全員を山門に追い上げて下から火をかけて焼き殺すという残虐な行為をしたことが詳細に書かれています。
そして、快川和尚は、山門の燃え盛る炎の中で「心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉を吐いたと言われていて、これが通説となっています。
しかし、前述の『甲乱記』では快川和尚と一緒に恵林寺の山門の楼上にいた長禅寺の長老高山和尚が快川和尚の問いに答えた言葉としています。平山優氏によれば、快川和尚が述べた有名な言葉は当時の書物にはまったく記録されていなくて江戸時代初めに初めて登場すると書いていて、通説に疑問を呈しています。
こうして織田氏により焼き討ちにあった恵林寺を、家康は、甲斐に入国する早々に再建しています。『改正三河御風土記』の「氏直若御子対陣 付北条和睦御縁組の事」に「信忠卿焼亡されし恵林寺も武田代々の菩提所なればとて、新たに建立し給い、その跡懇(ねんご)ろにとはせ(※注)給えば、織田殿の暴政とは雲泥の違いなりと、甲州・信州の寺社農商まで、万歳を唱え歓抃(かんべん:大いに喜ぶこと)せざるものなし」と書いています。注:「とはせ」という意味についていろいろ調べましたが正確な意味は不明です。文脈からすると弔うという意味だと思います。)
家康は、本能寺の変の後に信濃・甲斐・上野の領有をめぐって北条氏と争い、天正10年10月には北条氏と和睦し甲斐を領有することとなりましたが、恵林寺を入国早々に再建したのは、これによって武田家の旧臣の心をつかもうという思惑も家康にあったと思われます。
下地図中央が恵林寺です。恵林寺には、武田信玄や柳沢吉保のお墓もありますので、いずれお参りしたいと思っています。