織田信長、伊賀に侵攻する。《天正伊賀の乱》(「どうする家康」102)
「どうする家康」で2回にわたり、織田信長の伊賀侵攻に関連した話がでてきましたので、今日は、天正伊賀の乱と呼ばれる織田信雄と織田信長による伊賀侵攻について書きます。
伊賀国は、現在の三重県の西北部にあたる伊賀市と名張市からなる地域で、もともとは伊勢国の一部を割いて成立した国で、阿拝(あへ)、山田、伊賀、名張の4郡からなっていました。戦国時代には、守護として仁木(にき)氏が任ぜられましたが、在地土豪たちの力が強く実権をもつことはありませんでした。また、在地土豪たちも戦国大名へ成長する者もなくて、伊賀国は、「惣国一揆(そうこくいっき)」と呼ばれる在地土豪の連合体よる支配が行われていました。
この伊賀を攻略しようとしたのが、織田信長の次男織田信雄でした。信長の伊勢侵攻のなかで、伊勢国司家である名門北畠家の養子となった織田信雄は、天正7年(1579)に伊賀国に伊勢側から侵攻しました。
この伊賀侵攻の狙いについて、『三重県史』は「最終的には伊賀国全体を織田氏の支配下に置くことが意識されていたことは否定できないが、北畠氏の当主として置かれた信雄は、まずは(中略)旧北畠領全体の把握つまり南伊賀の支配化を当面の目的としたのではなかろうか」と書いています。
しかし、伊賀国の地侍・土豪たちは巧妙な戦いを仕掛け、織田信雄軍を敗退させ、重臣の柘植(つげ)保重は討死しました。信長は、信雄が独断で伊賀に侵攻し、しかも重臣柘植保重を討死させ敗退した失態ぶりに激怒したといいます。
そして、信雄の伊賀侵攻を撃退した伊賀の地侍・土豪たちに対して壊滅的な打撃を与えたのが天正9年(1581)に行われた織田信長の伊賀侵攻です。(※この2回にわたる伊賀侵攻が天正伊賀の乱と呼ばれていて、信雄の伊賀侵攻が第一次天正伊賀の乱、信長の伊賀侵攻が第二次伊賀天正の乱と呼ばれます。)
織田信長は、天正9年(1581)9月3日、大軍を動員して伊賀国四方から伊賀に侵攻しました。その攻め口は、「信長公記」によると、甲賀口からは、織田信雄・滝川ー益・丹羽長秀・蒲生氏郷・甲賀衆など、信楽(しがらき)口からは堀秀政など、加太(かぶと)口からは滝川雄利と信長の弟織田信包(のぶかね)、大和口からは筒井順慶と大和衆が攻め込んでいます。まさに四方から伊賀に攻め込んでいます。
「多聞院日記」によれば、侵攻が始まった翌日の9月4日には伊賀衆で寝返る者が出はじめ、降伏する者が続き、奈良からも伊賀国内が燃える煙が見えたと書かれているようです。
信長は、侵攻に際して徹底的に掃討するよう命令しており、多くの地侍・土豪たちが切り捨てられています。『信長公記』には、伊賀郡は織田信雄、山田郡は織田信包(のぶかね)、名張郡は丹羽長秀など、阿拝(あへ)郡は滝川一益などが処置し、それぞれが討ち取った者の名が具体的に書かれていますし、大和の春日山に逃げこんだ伊賀の武士たちを筒井順慶が捜し出して大将分75人をはじめ数えきれないほど斬り捨てたと書かれています。そして、伊賀国四郡のうち、織田信包が跡を継いだ長野氏のかつての拠点があった伊勢国長野(津市)と隣接する山田郡は織田信包(のぶかね)に与えられ、残る三郡は織田信雄に与えられました。
伊賀国では厳しい討伐が信長の手によって行われましたので、他国に逃げ出す地侍たち大勢いただろうと思います。「どうする家康」第26回で織田信長が伊賀を攻略したので多くの伊賀者が徳川家に保護を求めてきていると語られる場面があり、第27回では、すでに多くの伊賀者が徳川家に仕えていると服部半蔵が語る場面がありましたが、『徳川実紀』には、下記のような記載がありますので、全くの創作でもないと思われます。
「伊賀の侍柘植三之丞清広という者は、前年の天正9年(1581)に三河に参上して家康に拝謁し、『伊賀の者どもはみな織田家を離れ、徳川家に属したいと思っています。どうかお墨付きをいただけませんか』と願ったが、家康は『当家は織田家と親密な関係なので、お墨付きを与えることはできない。ただ以前の通り本領を守られるのがよかろう。もし当家に仕えたいならば、徳川領に居所を移すがよい』という返事であった」(『現代語訳徳川実紀 家康公伝【逸話編】』より)