武田勝頼に最後まで連れ添った北条氏政の妹=北条夫人(「どうする家康」103)
『改正三河後風土記』を読むと、徳川家の記録であるにもかかわらず、武田家の滅亡時のエピソードがいくつか記録されています。その中に「勝頼妻室貞烈」という勝頼の継室北条夫人(北条氏政の妹)について書いたものがあります。
「どうする家康」で描かれたわけではありませんが、興味深い話でしたので、今日はこの北条夫人について書いてみます。
北条夫人は、永禄7年(1564)北条氏康の六女として生まれました。長篠の戦いで敗北した勝頼の北条家との同盟の強化を図る一環として、天正5年(1577)1月に北条夫人が勝頼の継室として輿入れしました。輿入れの時、勝頼32歳、北条夫人14歳だったそうです。なお、武田勝頼の最初の正妻は織田信長の養女竜勝院でした。しかし、竜勝院は嫡男信勝を出産した後、若くして亡くなっています。
『改正三河後風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができますので、原文に沿いながらその内容を少し長くなりますが以下に書いていきます。
《勝頼は最後が近づいてきた際、北条夫人に対して『ここから相模は遠くはないので、あなたはどんなことがあっても小田原に逃れてくれ。たとえ敵にあったとしても女のことだから殺すほどのことはないだろう。また小田原に着きさえすれば、兄の氏政と私勝頼は不仲であるが、あなたは氏政の妹なので、つれなくすることはないだろう。勝頼が死んだと聞いたならば、尼となって後世を弔って欲しい。」と伝えた。すると北条夫人は涙をぬぐい「私は相模を出てこの国に参り、貴方に嫁いだ時から、来世でも同じように契りをかわそうと心に誓っておりました。たとえ玉の輿に乗せて送られるとも、故郷に帰ろうとは思いもよりません。三途の川もあなたと一緒に越えて、死出の山道も一緒にと思っていました。」と答え、二人はともに手を取り合って離れまいと泣き崩れた。勝頼は涙にくれながら「よくぞ申してくれた。それでこそ真の勝頼の妻である」と喜んでは嘆き、嘆いては喜び、よそ目も憚らず語り合っていたが、勝頼は「それにしても故郷の兄弟たちに申し残すことがあれば、どんなことがあっても手紙を書いて送りなさい」というと、北条夫人は「いや意外なことをいわれる。貴方が長坂光堅や跡部勝資の佞言(ねいげん;へつらいのことば)に惑わされて、上杉景勝の工作に乗じて、大量の黄金に目がくらみ、上杉景虎(北条夫人の実兄)を見殺しにしたことについて兄氏政は当然のことながら北条一族は深く怨み、今度の武田攻めでも敵に組したと聞いています。そうした貴方に連れそう私が、何の面目があって故郷へ申し送ることができましょうか。私は先に三途の川に参ってお待ちしています。貴方にはこのうえ心配してくださいませんように」と答えました。(北条夫人は)これまで付き添ってきた女房達23人には無理やり暇をだして、古くから仕えた者たちのみ残しておいて、最期が近づいてくると、いつも読み慣れている法華経をしずかにあげ、『隔(へだ)てなき 法(のり)をぞたのむ 身は田野の あしたの露と 消え果つるとも』と辞世の句をよみ、自ら守り刀を抜いて口に含んでうつ伏せになると、勝頼は即座に介錯し遺骸を抱きしばらく物も言わずに涙を流していた。敵も近づいてきているので、残された女房達も互いに差し違い自害していったのはたとえようもなく悲惨なことであった。》(以上です。)
同じく国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『甲乱記』にも北条夫人の最期が書かれています。それによれば、勝頼から小田原への脱出を諭された北条夫人は、自身が小田原に脱出することは拒んだものの、小田原から付き添ってきた4人の家臣たちには小田原に逃れるよう命じ、その際に自分の髪とともに「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消(きゆ)る 露の玉の緒(お)」という辞世の句を託しました。脱出を命じられた四人の家臣のうち剣持但馬守は全員が帰国したら小田原への聞こえも悪いといい北条夫人のそばに残り(夫人に殉じた)といいます。
これらの記録を読むと、武田勝頼と北条夫人の仲は非常に良かったのだろうと思われます。また、勝頼の嫡子信勝も最後まで勝頼と一緒に行動し潔い最期を遂げています。勝頼は、最後の最後に信頼していた家臣たちに裏切られていますが、本当の身内である妻子たちは最後まで伴に行動してくれたことは救われた気持ちだっただろうと思います。北条夫人のお墓は、甲州市の景徳院に武田勝頼・信勝のお墓と並んであるそうです。(最下段地図参照)
なお、武田勝頼、北条氏政、上杉景虎、上杉景勝の関係を少し書いておかないと『改正三河後風土記』に書かれている北条夫人の発言が理解できないと思いますので補足しておきます。
北条氏康・氏政父子と上杉謙信は、敵対関係にありましたが、武田信玄が北条氏に敵対するようになった時点で越相同盟を結ぶことになりました。そして、北条氏政の弟三郎が謙信の養子になり上杉景虎と名乗りました。しかし、天正6年(1578)上杉謙信が急死すると家督相続争いが勃発し上杉景虎と上杉景勝が争いました。これが御館(おたて)の乱です。この時、武田勝頼は、北条氏政から景虎支援を要請されていたものの最終段階で上杉景勝を支持しました。御館の乱で敗れた景虎は自害して果てることになりました。このことに激怒した北条氏政は、武田家との同盟を破棄し、武田勝頼と敵対することになりました。
武田勝頼が上杉景虎でなく上杉景勝を支持するようになったのは、『改正三河後風土記』に書かれているように武田勝頼の側近であった長坂光堅や跡部勝資が上杉景勝側のわいろ攻勢に乗った結果だという噂があったのかもしれません。
下地図中央が景徳院です。