織田信長、本能寺で死す《本能寺の変》(「どうする家康」104)
「どうする家康」第28回は有名な本能寺の変でした。本能寺の変はこれまでも小説やTVドラマ・映画に数多く描かれてきました。その描き方はいろいろありますが、基本的なストーリーは、信長の伝記として信用性の高いとされている『信長公記』に書かれているものがベースとなっているようです。そこで、今日は『信長公記』にどのように本能寺の変が書かれているか紹介します。『信長公記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、明智光秀が自分の居城坂本城を出発する天正10年(1582)5月26日から本能寺の変が起きた6月2日(下記『信長公記』では6月1日となっている)までの部分を、原文に沿って私なりに現代語訳して書いていきます。
5月26日、明智光秀は、中国方面へ出陣するために坂本を出発し、丹波の亀山の居城に到着した。
次の日、27日に亀山から愛宕山へお参りし一晩参籠した。光秀は何か思うところがあったのであろうか神前へ参り、太郎坊の御前で二度三度とくじを引いたという。
28日、西坊において連歌会を興行した。
発句 明智光秀
ときは今あめが下知る五月哉 明智光秀 (以下、西坊行祐や里村紹巴の連歌が書かれているが略す。)
5月28日、(明智光秀は)丹波国亀山へ帰城した。
5月29日、信長は上洛した。(以下、留守番衆が列挙されているが省略する)これらの者に留守居役を仰せ付け、小姓衆2.30人を召し連れて上洛した。すぐに中国へ出発しなければならないので、出陣の用意を整えて、 一報有り次第出動するべきとの旨のお触れが出ていたので、今度は大勢の御供はなかった。こうした中で予期せぬ事態が起きた。6月1日、夜に入って、丹波国亀山で明智光秀が逆心を企て、明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利三、これらの者と相談して、信長を討ち果たし、天下の主となる計画をたて、亀山から中国方面へは三草越えすべきところであったが、その進路を引き返し、東向きに馬の首を揃えて、老の山へ上り、 山崎に出てから摂津の国内に出勢すべき旨を諸卒に伝達し、謀反について相談した者たちに先陣を申し付けた。
6月1日、夜に入って、 明智光秀の軍勢は老の山へ上り、右へ行く道は山崎、 天神馬場、摂津国への街道であり、左を下れば京へ出る道であるが、ここを左へ下り、桂川を越えたところで、ようやく夜も明けてきた(※従って、本能寺の変が起きたのは6月2日)。既に信長の御座所本能寺を取り巻く軍勢は四方から乱入した。信長も小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者がやったと思っていたところ、まったくそうではなく、鬨(とき)の声を上げて、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。これは謀叛か、いかなる者の企てかと信長が聞くと、森乱(森成利)が「明智の者と見られます」と言上すれば、信長は「是非に及ばす」と答えた。敵は透き間無く御殿へ乗り入れてきたので、表御堂の番衆も御殿の者と一団となった。 厩(うまや)からも家来たちが討って討死した。また御殿の中で討死した者も大勢いて小姓衆も討死している(討死した人の名前が記載されているが省略する)
信長は、初めのうち弓を取って二つ三つ矢を射ると寿命が尽きたようで弓の絃が切れてしまった。そのあとは鎗で戦ったが、肘に鎗疵(やりきず)を受けて引き退(の)いた。それまで傍に女房たちが付き従っていたが、女たちは差し支えないから急いで逃げろと言って追い出した。そうするうちに御殿に火が掛けられ、火が迫ってきた。信長は最期の姿を見せまいと思ったのであろうか、殿中の奥深く入り、内側から納戸の口を閉めて無情にも腹を召された。
以上が『信長公記』に書かれている本能寺の変です。これと比較すると「どうする家康」で描かれた本能寺の変は独自の描き方のように私には感じられました。