織田信忠も二条新御所で亡くなる(「どうする家康」105)
昨日紹介した『信長公記』では、信長が明智光秀に襲撃され自害したと書かれた後に、信忠も自害したことが書かれています。信忠は、既に信長から家督を相続しており、武田領国侵攻の際には総大将として信濃から甲斐に攻め入っていています。「歴史にもしはない」とよく言われますが、信長が暗殺されたとしても、もし信忠が生き残っていたならば、織田政権は存続し、豊臣秀吉の天下統一、さらには徳川家康の征夷大将軍就任もなかったかもしれません。それだけ、信長の死とともに信忠の死は重大な事でした。そこで、「どうする家康」では信忠のことはまったく触れられていませんでしたが、今日は『信長公記』に書かれた織田信忠の最期について書いてみます。
信忠は、信長とともに中国の毛利攻めのため上洛し、京都の妙覚寺に宿泊していました。信長が明智光秀に襲撃されたとの連絡を受け、信長を救うため本能寺に向かおうとしましたが、京都所司代の村井貞勝から、本能寺がもう焼け落ちているとの報告をうけて、妙覚寺より防御の堅い二条新御所に入り、防戦しましたが、多勢に無勢で、明智勢の攻撃を防ぐことができず、ついに自害しました。
この間の信忠の動きが『信長公記』に詳細に書かれています。『信長公記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことできますので、私なりに現代語訳して紹介します。
「織田信忠は明智光秀により本能寺が襲撃されたことを聞いて、信長と一緒になろうと思って、妙覚寺を出たところへ、(京都所司代の)村井貞勝父子三人が駆け付けて、信忠に『本能寺はもはや陥落し、御殿も焼け落ちました。敵はきっとここへも攻めてくるでしようから、二条新御所(※二条新御所は正親町天皇の第一皇子誠仁親王の御所、詳細は下記注参照)は構えがよく出来ています。そこへ立てこもるべきでしょう』と申し上げた。これによって直ちに二条新御所へ駆け込んだ。(誠仁親王に)信忠が言うには、『ここは戦場となりますので、親王様(誠仁親王のこと)、若宮様(和仁親王のこと、のちの後陽成天皇)は禁裏へ御成になるのがよろしいです』と申し上げて、不本意ながらもお別れの挨拶をして、(親王と若宮を)内裏へお入れした。
そして、ここで評議を行ない様々な意見が出た。一旦この二条新御所から撤退したほうがよいと申し上げる者もいた。信忠が言うには、このような謀叛を決行するからには、よもや逃れさせはしないだろう。雑兵の手に掛かって、あとになってそしりを受けるのが無念である。ここで腹を切った方が良いと言った。神妙な振る舞い、哀れである。そのような最中に、程なくして明智光秀の軍勢が到着し攻撃を仕掛けてきて、(この後に明智勢と戦った家臣の名前が挙げられているがそれは略す)それぞれが切って出て、斬り殺し、斬り殺されして、我れ劣らじとそれぞれ戦い、お互いに知り知られる間柄の戦いであるので、刀の切っ先から火焔を降らすほどの戦いであった。(中略)
そのようなところへ、敵は近衛前久の御殿へ上がり、二条新御所を見下ろし、弓鉄砲を撃ち込んだので、手負いの人や死者が大勢出て、だんだんと人が少なくなっていった。ついに敵は二条新御所内へ攻め入って火を掛けた。信忠が言うには、腹を切った後、縁の板を引き離し、このなかに入れて屍を隠すようにと命じた。介錯は鎌田新介に命じた。織田家一門、お歴々、家子郎党、枕を並べて討死、算を乱した様子を見て信忠は不憫に思った。御殿も焼けてきたので、この時、遂に信君は腹を切った。鎌田新介が介錯をした。信忠の命令どおり、遺骸を隠したが、無常の煙となって、哀れな風情には目もあてられなかった。」
二条新御所:信長は天正4年(1576)、信長が自らの京都の屋敷とするため、押小路室町にあった二条晴良の屋敷を譲り受け、所司代村井貞勝に普請を命じ築造し、天正7年11月に正親町天皇の第一皇子誠仁(さねひと)親王に献上しました。そこで、この屋敷は「二条新御所」と呼ばれました。現在の京都市営地下鉄の御池駅の北西部にありました。(下地図中央の二条殿跡と書かれている場所が京都新御所跡です)