家康、本能寺の変を知り帰国を決断する(「どうする家康」106)
天正10年6月2日、本能寺の変が起きた時、徳川家康が堺にいたことはよく知られています。そして、織田信長が自害したことを聞いた家康は、一旦は信長に殉じて死んでしまおうとしたものの、考えを替え、三河へ帰国しようとしたこともよく知られています。
このことは、『改正三河後風土記』や『徳川実紀』にほぼ同じ内容で書かれています。そこで、今日は、『改正三河後風土記』に書かれていることを紹介します。
国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる『改正三河後風土記』の「神君伊賀越御帰路の事」の前半部分に信長暗殺されたとの報告を受けた家康の動きが書かれていますので、その部分を私なりに現代語訳してみます。『改正三河後風土記』には次のように書かれています。少し長くなりますが、最後までお読みください。
「家康は5月28日京都の名所旧蹟を御覧になって、同晦日に和泉国堺を遊覧した。『信長公ももう上洛しただろう。我等もやがて京都に帰ってお目見えしようと思う。お前が先に行ってこの旨を申し上げよ」ということで、御供についてきた茶屋四郎次郎晴延を帰した。そして、6月2日の早朝本多平八郎忠勝を御使として、今日は京都に帰りつくと信長につげさせるため先発させた。そして家康も堺を出立した。本多忠勝は馬を馳て京都に登ろうとしていると河内国交野郡の牧方(ひらかた)あたりまで来ると、京都の方から背中に荷鞍(にぐら)をつけた馬に乗って、追かけ追かけ来るものがいた。見ると茶屋四郎次郎であった。茶屋四郎次郎は馬を寄せてきて『世はもはやこれまでです。本日明け方。明智光秀が謀反を起こし、本能寺の御宿舎に押寄せて、火を放って攻撃しました。信長公は御自害されました。信忠公の御宿舎も十重二十重に取巻いて戦い、信忠殿も御自害した聞きました。この事を告げるため急ぎやってきました』といった。
本多忠勝と茶屋四郎次郎はうち揃って飯盛の山麓(現在の大阪府大東市)まで引返すと、家康ははるかに二人を御覧なって「お前たちなぜここにいるのだ」と言って、御供の人々を遠ざけ、酒井忠次・石川数正・井伊直政・楙原康政・大久保忠隣だけを供として出向くと、本多忠勝がかくかくと申しあげた。家康は茶屋四郎次郎を呼び寄せてその有様(ありさま)をひとつひとつ尋ね、長谷川秀一を呼び寄せた。長谷川秀一が近く参上したので、家康が言うには「私は年来織田殿とよしみを結び、深く恩に感じている。供の人数がもう少し多ければ、どこまでも光秀を追いかけ、織田殿の為にひと戦をして、光秀を討ちとろうと思うけれども、この少人数ではなまはんかな事で、雑兵の手にかかって死んでしまうのも甲斐がない。それよりは、これから京都に登って、知恩院に入って腹を切って信長に殉じて死のう」と言った。
長谷川秀一は涙はらはらと流し「信長公は御自害されていると聞いている。今まで仕えた主君です。私藤五郎が一番に腹を切って道案内します。」と言った。「そうであれば忠勝先に参れ」と命じた。本多忠勝と茶屋四郎次郎二人が馬を並べて先導した。御供の人々は何事だろうと不思議に思いながら行くと、20町ばかり行ったかと思うと本多忠勝が馬を引返して、酒井忠次・石川数正等を呼んで「忠勝、未熟の身で諫言するのは申し訳ないと思いますけれども、わが主君の一大事が今日に極まった以上は、思う所を申し上げます。わが主君は信長公と年来の信義を守って、一緒に死のうというのは、当然のことで、お考えに従わないという訳ではありません。しかし、信長公のために年来の志に報いようと思うならば、どんなことをしても本国へ帰って、軍勢を整えて攻め登っって、光秀の首を切ってお供えすれば、どんな読経・仏事で供養よりもまさっています。信長公の魂もそれでこそ喜ぶことでしょう」と言った。
酒井忠次・石川数正たちは「年齢を重ねた我々がこのところに気がつかなかったことは返す返すも恥かしいことだ」と感服し、急ぎその趣旨を(家康に)申し上げた。家康はしみじみと聞いて「私ももし本国に帰る事ができれば、軍勢を催し光秀を誅戮(ちょうりく)しようというのはもともと私の願いである。しかしながら主従がともにこの地に来るは初てである。何も知らない野山にさまよって、山賊一揆のためにここかしこで討ち取られることは口惜しいので、京都に登って腹を切ろうと決心したのだ」と言った。長谷川秀一は怒った眼に涙をうかべ「我等も悔しいことにここまで御供して、主君の最期の御供もしないで、賊党一人も切て捨てず、このままで腹を切って死んだのでは、冥途(めいど)黄泉(よみ)の下までも恨みが深くなって当然だと思う。ありがたいことに家康公が帰国して光秀を誅伐する際には、私が先陣となり討死するのは本望です。三河への帰り路が危険だと考えると思いますが、日頃このあたりの武士たちはみな私が取次役で信長公へ仕えた者なので、私が言う事にはよもや異論をいうことはないと思います。それゆえ、このたびもこのあたりの道案内に来たのです」といったので、酒井忠次、石川数正たちはこれを聞いて「本当に幸運なことなので、忠勝が言ったことに従って道中の事は長谷川秀一に任せらるべきである」と言い、帰国することに決まった。
この時になって御供の人々がはじめて事件のことを知ったといいます。穴山梅雪もここまでは一緒した。「帰り道も一緒にどうですか」と言ったけれども、梅雪は疑うことがあったのだろうか。辞退して別れて、宇治田原(京都府綴喜郡宇治田原町)まで来た所に〈一説には草内渡(くさじのわたし)とする〉野伏ども大勢蜂起して、梅雪主従ともに一人も残らず討たれてしまった。
以上が『改正三河後風土記』の記述です。 徳川家康は、本能寺の変で織田信長が死んだこと聞くと取り乱して自害しようとしたというふうに書いたものを読むことがありますが、『改正三河後風土記』を読むと、家康は全く動揺することはなく、本多忠勝の進言を踏まえて三河に帰国すると的確に決断しているように感じました。