穴山梅雪、宇治田原で一揆勢に討たれる(「どうする家康」107)
昨日、『改正三河後風土記』に穴山梅雪が帰国途中で土民たちに襲われて亡くなったことについて次のように書いてあると紹介しました。
「穴山梅雪もここまでは一緒した。「帰り道も一緒にどうですか」と言ったけれども、梅雪は疑うことがあったのだろうか。辞退して別れて、宇治田原(京都府綴喜郡宇治田原町)まで来た所に〈一説には草内渡(くさじのわたし)とする〉野伏ども大勢蜂起して、梅雪主従ともに一人も残らず討たれてしまった。」
穴山梅雪主従も、飯森山付近までは家康一行と一緒に来ていましたが、本能寺の変のことを伝えたうえで、今後も一緒に行きましょうと誘ったものの、家康一行を疑って、同行することを断り、単独で帰国をめざしたものの、宇治田原で、野武士や土民たちに襲撃されて亡くなったと書いてあります。
また、『東照宮御実紀(いわゆる『徳川実紀』)』には、次のように書かれていますので、追記しておきます。なお、『東照宮御実紀』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、現代語訳したものを記します。
「穴山梅雪、 一揆勢に討たれる。(家康が)「穴山梅雪もこれまで従ってきたのだから、 帰りも一緒に連れて行こう」といわれたが、 梅雪は疑い思うところがあるのか、 無理して辞退し分かれ、宇治田原あたりに至ると一揆のために主従はみな討たれてしまった〔これは光秀が家康を途中で討とうと計画し、 その土地の者たちに命じておいたが、その土地の「人たちが誤って梅雪を討ったのである。よってのちに光秀も、「討たなければならない家康を討ち漏らし、捨ておいても害のない梅雪を討ち取ったことも私の命(天命) の拙さよ」と後悔したという」
内容は『改正三河御風土記』と同じですが、注目したいのは、最後の括弧書きの部分です。そこには、明智光秀は、織田信長を京都の本能寺で討つのがまず第一の目標ですが、徳川家康をも討とうと計画していて、そのため、堺に向かった家康一行の旅先周辺の武士・百姓・野武士たちに家康を討つよう伝えていたことが書いてあります。
もし、この通りであれば、家康は、本能寺の変の当時、非常に危険な状況の中に置かれていたことが改めてわかります。そうしたことから、追記させてもらいます。
現在の宇治田原町は、京都府綴喜(つづき)郡に属する宇治川沿い町で、京都府と滋賀県の県境近くにある町です。(下地図参照)
なお、穴山梅雪が討たれたのは「草内(くさじ)の渡し」であったという説もあります。その「草内の渡し」は、現在の京田辺市草内にあった木津川の渡しで、河内から宇治田原を抜けて近江へ向かう最短ルートでした。