本能寺の変の標的は家康だったとの明智軍の武士の記録(「どうする家康」108)
昨日、明智光秀が堺にいた徳川家康を討つよう命じていたという話が残されていたことを書きましたが、本能寺の変の標的は家康だと思ったという明智光秀の軍勢に従軍していた武士の記録が残されています。
その史料は、『本城惣右衛門覚書』という史料です。「本城惣右衛門覚書」は、本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の本城惣右衛門が、江戸時代前期の寛永17年に記録したもので、その中に、本能寺襲撃時の様子が記録されていて、本能寺の変の直接の当事者が残した唯一の記録とされています。「本城惣右衛門覚書」は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。それに沿って現代語訳すると下記のようになります。
「明智光秀が謀反を起こし、信長様に切腹させた時、本能寺へ私達より先に入ったなどという人がいたら、それは全てうそだろうと思います。信長様に自害させたことは夢とも知りませんでした。その時、太閤様が備中にて毛利輝元殿と戦っていました。それの支援として明智光秀が出陣すると言っていました。山崎方面へ行くと思っていたところ、思いもよらず京へ向かうと言うので、我らは、その折、家康様がご上洛されているので、(標的は)家康様とばかり思っていました。本能寺がどこにあるのかも知りませんでした。軍勢の中から、騎馬の二人が出てきました。誰だろうと思うと、斎藤(利三)内蔵介殿の子息と小姓の二人が、本能寺の方に乗っていきましたので、我等もその後について、かたはら町(場所は不明)に入りました。(以下略)」
これを読むと、本能寺襲撃に参加した武士でも本能寺がどこにあるかもしらず、標的が信長であることは全く知らず、家康が標的だろうと思っていたと書いてあります。
また、ポルトガルのイエズス会宣教師で織田信長とも親しく交わったフロイスの「日本史」には、本能寺には家康が滞在していて信長の命令で家康を討つために本能寺を襲撃すると兵たちが思っていたと書いてあります。フロイス「日本史」は国立国会図書館デジタルコレクションで見つけることができませんでしたが、藤田達生著『証言本能寺の変 史料で読む戦国史』にはフロイス「日本史」が史料として掲載されていますので、そこの部分を紹介します。
「兵士たちはかような働きがいったい何のためであるか訝(いぶか)り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を討つつもりであろうと考えた」
以上、「本城惣右衛門覚書」とフロイス「日本史」には、本能寺を襲った明智光秀軍に参加した将兵の中には、標的が家康だと思った者がいたことが書かれています。
さらに驚くべきことが、江村専斎の体験や伝聞を伊藤坦庵が筆録した『老人雑話』という書物の中に書かれています。下記の『老人雑話』の内容は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それに沿って私なりに現代語訳したものです。
「本能寺の変の時は、徳川家康は堺にいた。信長が長谷川秀一に命じて、家康に堺を見せよと付けて寄越した。実は旅先で隙を見て殺害する企てだったという。家康は運よくて本能寺の変が起き、豊臣秀吉が西国から登ってきた時に、伊賀越えで三河の岡崎に急いで帰った。明智のことがなければ、家康は危なかった。」
これを読むと、信長が家康を堺に遊覧に行かせたのはタイミングをみて家康を殺害するためであったと書いてあります。もしこれが本当であれば家康にとっては非常に怖ろしいことです。(もちろん本当だったのかどうかはわかりません。)
以上、紹介した史料がすべて史実を書いているのかどうかは判断しかねます。しかし、良好な関係にあったと思われる信長と家康の関係ですが、当時の人たちの中には、表面的には良好な関係にあったように見えるもののその裏側では両者は緊張関係にあると認識していた人たちがいたということを示しているかもしれません。