明智光秀、安土城に入城する(「どうする家康」109)
天正10年(1582)6月2日に、本能寺で織田信長を、そして、二条新御所で織田信忠を自害に追い込んだ後、明智光秀は安土城に入城しようとしています。今日は、本能寺の変直後の明智光秀の行動および安土城の様子を『信長公記』に基づいて書いてみます。
「6月2日、辰の刻(午前8時頃)、信長公父子、御一門、お歴々を討ち果たして、明智光秀が言うには、落人がいるだろうから家々を探せと命じた。兵隊たちは洛中の町屋に押し入り、落人を捜索するありさまは、目も当てられなかった。都の騒動は大変なものだった。そのあと、 明智光秀は近江の軍勢が都へ攻め上ってくるかも知れないと思い、その日、京から直ちに瀬田へ打って出、山岡景隆・山岡景佐兄弟に人質を出し明智と同心してくれと申し入れた。ところが、『信長公からの御恩は浅くない。かたじけないが、決して同心することは出来ない』として、瀬田の橋を焼き落とし、山岡兄弟は居城に火を掛けて、山中へ退去した。ここで明智光秀は打つべき策がなくなり、瀬田の橋詰に拠点を築いて、軍勢を入れ置き、明智光秀は坂本へ帰城した。」
これによると、信長・信忠父子を殺害した明智光秀は、安土城を抑えようとして瀬田城主山岡景隆に味方になるよう申し入れますが、山岡景隆はそれを拒否し瀬田橋を焼け落としたため、明智光秀は、やむなく自分の居城の坂本城に戻っています。続いて、本能寺の変が起きたとの情報を得た安土城の様子が次のように書かれています。
「6月2日巳の刻(午前10時頃)、安土には風の吹くように、明智光秀が謀叛を起こし、信長公、信忠卿御父子、御一門、そのほかお歴々が腹を召されたと急報があった。上下の者はこの話を聞き、大事なことだと承知し、初めのうちは目と目とを見合わせて騒ぎ立てることは尋常ではなかった。そのようなところへ、京から下男衆が逃げ帰り、噂が決定的となった。人々は自身の身の回りの処理に取り乱れ、泣き悲しむ者もなかった。日頃から蓄えた重宝(じゅうほう)の道具などには目もくれず、家を捨てて妻子だけを引き連れて、美濃、尾張の人々は本国を目指して、思い思いに逃げて行った。
その日、2日の夜に入り、山崎秀家が自宅を焼き払って、安土から山崎の居城へ退去したので、ますます人々が騒ぎ立てることはこのうえもなかった。蒲生賢秀は、こうなったからには信長公の御上﨟衆(※上臈とは高貴な女性をいうので、ここでは信長の正室や側室たちを指すものと思う)やお子様たちを、まずは日野谷まで退避させようと、話合いを行い、息子の蒲生賦秀(ますひで:のちの氏郷)を日野から腰越に(信長の妻子)お迎えするため呼び寄せ、牛馬、人足なども日野から召し寄せた。
6月3日未の刻(午後2時頃)、ここを離れるように迫ると、上﨟衆が言うには、 何にしても安土を捨てて退避するからには、 天守に収蔵する金銀、太刀、刀を持ち出し、火を掛けて退去するようにと仰せになった。蒲生賢秀は世にも稀な無欲の人であった。信長公が長年心を尽くして金銀をちりばめ、天下無比の御城を造った。 それを蒲生の一存で焼き払って、 むなしく赤土としてしまうことは恐れ多いことです。そのうえ金銀名物を手当たりしだい持ち出したら、都鄙(とひ)から嘲笑されることいかばかりでしようかと言上した。安土の城郭は、木村高重に預け、それぞれの上﨟衆に警固を付けて退去した。下々の人々は徒裸足(かちはだし)で、足は血で赤くそまり、哀れな姿は目もあてられなかった当てられなかった。」
これによると本能寺の変が起きたことを知った安土城では大騒ぎとなりました。城内にいた多くの人々が妻子をつれて故郷に逃げて行こうとしている中で、日野城主の蒲生賢秀は、信長の妻子を護って日野城に退避させようとします。その際、天守に所蔵されている財宝を持ち出した後、火をかけるようにと言われましたが、それを断わったうえで安土城を木村高重に預けて日野城に落ちて行ったようです。
そして、『信長公記』はここまで書かれているのみで、明智光秀が安土城に入城したことまでは書かれていません。
しかし、明智光秀は、6月4日、修復された瀬田橋を渡り、安土城に入城しています。信長を討ち取り天下を掌握したということを示すには安土城に入城する必要があったためだと言われています。