家康を堺で接待した松井友閑・津田宗及そして今井宗久(「どうする家康」109)
本能寺の変が起きる直前、徳川家康は織田信長の勧めにより堺で遊覧していました。『堺市史』によると、家康は天正10年(1582)5月29日に堺についています。当日は堺代官の松井友閑の屋敷に泊まりました。その際に本願寺から三種五荷鯛三十枚などが贈られています。そして6月1日は、今井宗久の屋敷を訪ね茶会を主催し、夜は松井友閑の屋敷で茶の湯の催しがあり、その後幸若舞を見ながら酒宴が開かれたようです。そして、6月2日朝に堺を出発し京都に帰る途中で本能寺の変を知りました。堺には5月29日と6月1日の二日間(※注:『信長公記』を読むと5月30日の記述がないので天正10年の5月は30日なかったものと思われます)
「どうする家康」では、松井友閑と津田宗及が登場して家康を接待していました。二人のうち、松井友閑は、当時、堺の代官でした。松井友閑は、もともと清須の町人だったのを信長が家臣に抜擢したといわれています。信長の側近として仕えて、天正2年(1574)、信長による東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの際の奉行、天正5年の信貴山城主松永久秀の謀反の際や翌年の有岡城の荒木村重の謀反の際には翻意を促しています。また、天正8年には石山本願寺の接収にもあたり、信長の側近として大いに活躍しました。信長が亡くなった後、秀吉に仕えましたが,天正14年堺の代官を罷免されました。
また、津田宗及は、堺の豪商天王寺屋の3代目で会合衆(えごうしゅう)の代表的な存在でした。津田宗及は、千利休、今井宗久とともに茶の湯天下三宗匠の一人に数えられています。津田宗及は、茶の湯を父宗達に学び、信長の茶頭(さどう)に取り立てられました。信長が亡くなった後も秀吉に茶頭として仕えましたが、北野大茶会を最後に、秀吉の茶頭としての地位を解かれ、利休が死去した1年後の天正19年(1591)堺の屋敷で亡くなっています。後を継いだ嫡男の宗凡には跡取りがなく、慶長17年(1612)、天王寺屋は断絶しました。
津田宗及の次男は、大徳寺第56世住持となった江月宗玩(こうげつそうがん)です。天王寺屋は嫡男の宗凡が亡くなったため、津田宗及が所蔵していた茶道具の名品が江月宗玩(こうげつそうがん)に渡っています。その一つが、大徳寺の塔頭龍光院に伝わる国宝「耀変天目茶碗」で、龍光院は江月宗玩(こうげつそうがん)が開祖となった大徳寺の塔頭です。
『堺市史』に家康が6月1日に訪ねたと書かれている今井宗久は、「どうする家康」には登場しませんでしたが、堺の代表的な豪商です。武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶を学び、その女婿となり、紹鴎が所蔵していた名物の多くを譲り受けました。信長には早い時期から接近し信長に茶頭として仕え、信長の亡き後、豊臣秀吉に仕え3000石の知行を拝領しました。千利休、津田宗及とともに茶の湯天下三宗匠の一人に数えられています。