『徳川実紀』に書かれている伊賀越え(「どうする家康」110)
「どうする家康」第29回では、徳川家康の三大危難の一つに数えられる「伊賀越え」が描かれていました。家康が伊賀を越えて三河に帰るために大変な苦労があり、命の危険もあったなか、無事帰国したという展開でした。
そこで、まず最初に『東照宮御実紀(いわゆる『徳川実紀』)には「伊賀越え」がどのように書かれているか紹介します。『東照宮御実紀』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、私なりに現代語訳して書いてみます。少し長いですが、最後までお読みください。
「伊賀越え」は『東照宮御実紀』の巻三の中で次のように書かれています。
「竹丸(長谷川秀一のこと)は、 やがて大和の十市(とおいち:大和国の国衆十市氏のこと)のもとに使者を立てて案内を求めた。本多忠勝は蜻蛉切(とんぼきり:忠勝の名槍)という槍を持って真っ先に立ち、その土地の者たちを駆り立てて道案内を求めた。茶屋四郎次郎は土地の人たちに金を多く与えて道案内させ、河内の尊園寺村から山城の相楽山田村に着いた。ここに十市から案内役に吉川という者をよこし、3日には木津川の渡りに着いたが舟がない。忠勝は、槍を差し伸べて柴舟(しばぶね)二艘を引き寄せて、主従を渡した後、 槍の石突(槍の柄の末端の地面を突く部分)で二艘の舟を叩き割って捨てた。その夜、長尾村八幡山に泊り、 4日、 石原村(石原田村か)に通りかかると、一揆が起きて道を遮った。忠勝たちが力を尽くしてこれを追い払い、白江村、老中村、江野口(郷之ロ)を経て、 呉服明神の神職である服部のもとに泊った。5日には服部、山口などというその土地の侍たちが道案内して、宇治の川上に着いたがまた舟がなく、御供の人びとがどうしようかと思い悩んだとき、川の中に白幣が立っているのを見て、「天照大神のお導きだ」といいながら、榊原小平太康政が馬で乗り込むと、思いのほか浅瀬であった。そのとき酒井忠次が小舟一艘を探し出し、家康を渡した。そのうち近江国瀬田の山岡景隆・山岡景佐兄弟が出迎えた。この場所から信楽までは、山道が険しく山賊の巣窟であるが、山岡、服部が御供をしたため、山賊たちや一揆に襲われることなく信楽に到着した。ここの多羅尾光俊は山口、山岡などと縁があるため、この場所で休憩し、高見峠から十市が寄越した道案内の吉川は別れ、音聞峠(おときとうげ:御斎峠:現在の三重県伊賀市西山)から山岡兄弟も去った。去年、信長が伊賀国を攻めたとき、その土地の侍たちを皆殺しするよう命じたため、伊賀の人が数多く三河・遠江の御領内へ逃れてきた人々を、家康は厚く援助し情をかけ面倒をみたので、このたびその親族たちはこの御恩に報いようと拓殖村の者が2~300人、近江国甲賀の地侍など100人余りが道案内に参上した。上拓殖から三里半の鹿伏所(加太:現在の三重県亀山市加太)といって山賊が群がり住む山中を難なく越えられ、6日に伊勢の白子浦に到着した。その地の商人角屋という者が舟を準備し、主従はこの日頃の辛苦を語りなぐさめた。ちょうどそのとき、待ち望んでいた方角の風が吹いて三河の大浜に到着し、7日に岡崎へ帰られ、主従は初めて安堵した〔これを伊賀越えといい、家康の生涯の困難の第一とする〕。」(以上)
『東照宮御実紀』を読んでみると、次のような点で「どうする家康」の展開とは違っているように思います。①酒井忠次や石川数正は家康と別行動をとっていないように思われる。②百地丹波という人物はまったく登場していない。⑶本多正信もまったく登場しない。④伊賀の人たちは天正伊賀の乱で家康が伊賀の人たちを救ったことに恩義を感じていた。⑤家康が帰ったのは岡崎城であり浜松城ではない。等々