多羅尾光俊が家康に赤飯を提供した話(「どうする家康」111)
「どうする家康」第29回の伊賀越えで、甲賀の住人多羅尾光俊が家康一行に赤飯を提供する場面がありました。多羅尾光俊が伊賀越えの最中に家康一行に赤飯を提供する話は、『徳川実紀』に書かれています。『徳川実紀』で伊賀越えについてどう書かれているかは昨日紹介しましたが、多羅尾光俊が赤飯を提供した話は、『徳川実紀』の逸話編に書かれています。
そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで読める『徳川実紀』に書かれている内容を現代語訳してみました。
「(前略)近江国信楽に着いてみると土地の人たちが木戸を閉めて往来を止めていた。この地の代官多羅尾四郎光俊は、(長谷川)秀一の古くからの知り合いであったので、秀一はその旨(家康一行の到来) を告げたところ、光俊は速やかに木戸を開かせて、(家康の)御駕籠を自分の家に迎え入れ、いろいろとおもてなしをした。このとき赤飯を提供したところ、家康とその家臣たちは非常に空腹だったので箸が(出されるの)も待たず手でそのまま召し上がったという。」
『徳川実紀』に家康や家臣たちが箸が準備されるのも待たずに手づかみで食べていたというのですから、相当空腹だったようです。「どうする家康」では、手づかみで赤飯のおにぎりを食べていて、この点をうまく描いていると思います。
ただし、『徳川実紀』では、長谷川秀一が多羅尾光俊に家康の到着を告げて迎え入れたと書いてあり、『寛政重修諸家譜』では後で述べるように宇治田原の山口城にまで迎えにいったと書いてあります。従って、「どうする家康」で描かれていた家康一行と多羅尾光俊とのコミック的な出会いは創作のようです。
『寛政重修諸家譜』の多羅尾光俊の項に家康を助けたことが次のように書かれています。「宇治田原の山口城主山口光広は光俊の五男で長谷川秀一とも知り合いなので、山口城に着くと、山口光広は飛脚で父多羅尾光俊に連絡しました。多羅尾光俊はすぐに息子の光太(みつもと)とともに迎えにあがり、山田村ではじめて拝謁し、それから信楽の居宅に入った。光俊一族らとともに甲賀の侍を率いてこれを警衛し、その夜は御膳をさしあげ、いろいろこころをつくして守護すると、光俊は、家康の御前に呼ばれ、御礼をお言葉を賜った。」と書いてあります。
この信楽で家康を助けた多羅尾光俊は、多羅尾の小川城の城主でした。多羅尾家は、京都の公卿近衛家の流れをくみ、初代師俊は関白近衛家基の孫ではじめ高山氏を名乗り、後に甲賀郡信楽を支配し地名から多羅尾氏と名乗りました。多羅尾光俊は、師俊の14代の孫と『寛政重修諸家譜』に書かれています。
また、「寛政重修諸家譜」によれば、多羅尾光俊は、家康が一泊した後、三男光雅、五男光広等に従者50人および甲賀の士150余人をつけて伊賀路を道案内し、伊勢国白子の浜まで従い、のちにこの勤労を誉められて、来国行(らいくにゆき:鎌倉時代中期の京都の刀工)の御刀、時服、黄金、馬等を拝領しています。
多羅尾光俊は、豊臣秀吉に仕えましたが、息子光太(みつもと)の長女が豊臣秀次の側女となっていたため豊臣秀次事件に連座し光俊をはじめ多羅尾一族は改易となりました。しかし、その後、光太(みつもと)は家康に召し出され旗本となり、幕府が開かれてからは、多羅尾代官を命じられ、以降11代にわたって多羅尾代官を世襲し、明治維新を迎えました。多羅尾代官陣屋跡は、甲賀市の文化財に指定されています。下地図中央参照してください。