『石川忠総留書』による徳川家康の伊賀越えルート(「どうする家康」112)
徳川家康の伊賀越えについて書いた当時の記録があまり残されていないうえ、諸本にそれぞれ異なるルートや日程になっているため家康の伊賀越えのルートについては諸説があります。多羅尾光俊の小川城を出発してから伊賀国を通過するルートについて、従来、次の3つのルートが主張されています。
①『石川忠総留書』による小川城から近江国と伊賀国の国境の桜峠を越えて丸柱→柘植(以上、伊賀市)を越え、加太越え(かぶとごえ:現在の伊賀市と亀山市の間にある峠で伊賀国と伊勢国の国境であった)を通り伊勢に出るルート
②『徳川実紀』による小川城から多羅尾方面に向かい、御斎峠を越えて丸柱に至り加太越えをするルート(「どうする家康」ではこのルートが紹介されていました。)
③「戸田本三河記」による小川城から「甲賀越」で伊勢国関に出るルート
そうした中で、『三重県史』をはじめ多くの本で最も信頼できる史料としているものが『石川忠総(ただふさ)留書』という史料です。
石川忠総は、大久保忠隣(ただちか)の次男として生まれましたが、家康の命により,外祖父の石川家成(※石川家成は「どうする家康」に登場する石川数正の叔父です。)の嫡子康通が戦死したため、その養子となったため石川姓をなのりました。家康の伊賀越えには、石川数正、石川康通のほか、実父の大久保忠隣、叔父の大久保忠佐(ただすけ)が随行していました。実父たち近親者が4人も参加していたので、『石川忠総留書』には比較的正しい情報が記録されていると言われています。
『石川忠総留書』は国立公文書館デジタルアーカイブで読むことができますが翻刻されていないので、『証言本能寺の変史料で読む戦国史』(藤田達生著)を参考にして、原文はカタカナ交じりの漢文のものを私なりに現代語訳して紹介します。
1,天正10年6月3日 東照権現様(徳川家康)泉州堺より伊賀路を通りご帰国の道程の事、
堺より山城国字治田原へ、3日八ッ時分(午後2時頃)にお着になられ、山口玄番(山口光広のこと、山口光広は多羅尾光俊の子供)は御馳走申し、お弁当さし上げた。
※ 堺、 平野(大阪市平野区)、 阿部(大阪市阿倍野区)、山ノねキ(東高野街道または山根街道か)、ホタニ(枚方市穂谷)、尊念寺(枚方市尊延寺)、草地(京田辺市草内)、宇治田原、 行程30里(※13里の間違いらしい)
1,字治田原をお立ち、山田村(宇治田原町奥山田か)へかかり、別当という出家が御案内者となる。信楽のうち小川村へお通りになり、多羅尾道賀(光俊)の所に御一宿なられたそうである。
※字治田原2里半、山田1里半、朝宮(甲賀市信楽町下朝宮)2里、小川(堺より小川まで19里)
1,6月4日小川村をお立なられ、多羅尾勘助(光俊)が御案内し、丸柱村(伊賀市丸柱)へいたるまでお供し、宮田という人が加わり、柘植(伊賀市柘植)まで送リ、柘植から米地九左衛門・柘植平弥の両人が御案内し、加太迄お供し、加太で野呂という人が加わり、関の地蔵《亀山市の関地蔵院》まで 御案内したそうである。関から東海道を真っすぐに四日市までお通りになり、ここで水谷九左衛門(光勝)が御馳走した。那古(現在の鈴鹿市長太(なご))より船にのったそうである。
※小川から四日市までの行程17里 小川半里向山1里 丸柱1里 石川半里 河合1里半 柘植2里 加太1里関1里半 亀山2里 庄野1里 石薬師2里 四日市1里半 那古
これによると6月2日は堺から宇治田原までの13里、6月3日は宇治田原から小川城までの6里、6月4日は小川城から那古までの17里の行程です。
堺から那古まで36里で、このうち伊賀国を通るのは、近江と伊賀の国境の桜峠から伊勢国との国境の加太峠まで5里程度です。それにしても、『石川忠総留書』によれば、最終日の6月4日には17里を歩いたことになります。江戸時代の大名行列は1日10里程度歩いたと言われていますので、17里は1日で歩けない距離ではありませんが、一揆の襲撃も警戒しながらの強行軍でしたので本当に大変だったことだろうと思います。

