『改正三河御風土記』による明智光秀の最期(「どうする家康」114)
明智光秀の最期が江戸時代の書物にどう書かれているのか探したところ『改正三河御風土記』に詳しく書かれていたので、今日は、それを紹介します。ちなみに『信長公記』、『徳川実紀』、『三河物語』には、明智光秀の最期については書かれていませんでした。
『改正三河御風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それに沿って、明智光秀の最期について書いていきます。
「(明智光秀は山崎の戦いに敗れた後、勝龍寺城に退却しました。)まず坂本へ退却してなんとかしようと評議一決して、夜中の鐘を待って勝龍寺城を逃出した。従う家臣は先頭に明智勝兵衞(溝尾茂朝)、その跡より光秀・進士佐左衞門・堀尾与次郎・山本仙人・三宅孫十郎・村越三十郎等が続いた。その後、小栗栖(おぐるす;京都市伏見区)の方へと小幡の古道をいそぎながら進んだところ、道の傍(かたわら)の藪陰(やぶかげ)に隠れていた百姓一揆どもが、落武者と見てとって、藪の中から真先に進んでいた勝兵衞を突いた。勝兵衞の甲胄は実によい胴丸なので背中まで突き通ることはなかったけれども馬から突落された。その次に馬に乗ってきた光秀は鎧の胴体を突きぬかれた、光秀は大変狼狽していて、この六月の炎熱にもかかわらず今朝から着ている具足を着替もしなかったので、鎗はぐさと具足を突通した。光秀は「憎きやつ」と言いながら、その所を駆け抜けたけれど、三町(約300メートル)ばかり行くとバタっと落馬した。供の者たちは大変驚いて光秀のところに駆け寄り、「坂本まではもう間もなくです」と申し上げると、光秀は腸を見せて「私の命はここまでだ。もう助かるのは難しい。皆の者、私の首を切って知恩院へ届けてほしい」と言うので、仕方なく勝兵衞(溝尾茂朝)が介錯して、光秀の首を打落した。(中略)
勝兵衞(溝尾茂朝)は光秀の死骸を田の中へ深く隠して、残った人たちと道をいそぐと、東の方が明るくなるころ、またも一揆の人々が迫って来て落武者を突き倒し討ち殺し、衣裳や持ち物をはぎ取って、目もあてられないありさまだった。勝兵衞もついに逃ることができないと考え、光秀の首を馬の下鞍(したぐら:馬具の一種)に包んで、溝の中へ隠して置き、自身はようやく切り抜けて跡をも見ずに落ちて行った。
翌14日羽柴秀吉の大軍が敗残兵を追っかけ追っかけ、三井寺まで来たるところ、村井春長軒(貞勝)の郎等である小泉儀兵衞が道の脇にある溝の中から泥のついた足跡があるのにきがついて、溝の中を搜したところ、首一つ取り出した。その首を洗ってみれば光秀に間違いなかった。即刻、秀吉の本陣へ持参した。秀吉は光秀の足跡を探索している最中であったので、首をみつけた儀兵衞には引出物を過分に与え、誉めてつかわした。そこへ小栗栖の百姓たちも光秀の死骸を持ってきた。甲胄(かっちゅう)威毛(おどしげ)には桔梗の紋があり、そのうえ帯ていた太刀は「岩切」という光秀が常日頃から秘蔵している名剣であった。それをみてだれもが光秀に違いなしといって、百姓たちも厚く恩賞にあずかった。」
これによれば、明智光秀は、よく言われるように、小栗栖で落武者狩りの百姓たちによって殺されています。ただし、細かくみると、竹槍で突きさされてその場で殺されたのではなく、いくらか逃げたもの、うけた傷は深くて、助かる見込みがないということで、重臣の明智勝兵衞(溝尾茂朝)が介錯し、その首を明智勝兵衛がもって逃げたとなっています。
その後、明智勝兵衛が持って逃げた首は、新たな襲撃から脱出するため途中で溝の中に置いていかざるをえず、その首が秀吉方の武士によって見つけられ秀吉本陣に届けられ、胴体も小栗栖の百姓たちが届けだしたようです。
『改正三河御風土記』では上記の後に、光秀の首と胴体は繋ぎ合わされ、京都の粟田口で磔にされたと書かれています。
また、春日局の父斎藤利三は明智光秀の重臣でしたが、山崎の戦いで敗北したあと、近江国堅田に潜伏していたところを発見され、捕縛されて、光秀とともに粟田口で磔にされたと『改正三河御風土記』に書かれています。

