徳川家康、混乱した甲斐を治める。(「どうする家康」115)
「どうする家康」第30回の前半で、家康の甲斐から信濃への侵攻について描かれていましたので、今日は、まず甲斐の占領について書いていきます。
織田信長・信忠の甲斐侵攻により、武田家が滅亡した後、武田領国は信長の命により次のように分割統治されました。(『信長公記』より)
甲斐⇒河尻秀隆、ただし穴山梅雪の本領地河内郡は穴山梅雪、駿河国⇒徳川家康、上野国⇒滝川一益、信濃国のうち高井・水内・更科・埴科郡(はにしなぐん)四郡⇒森長可
しかし、本能寺の変により信長が殺されるとまだ新たな統治体制が整っていなかったため、旧武田領国が混乱し、信濃四郡を治めてた森長可は、早々に本領の美濃に撤退しました。また、上野国の滝川一益は攻勢を強めた北条氏直軍と戦い敗北し本領の伊勢に逃げ帰りました。そして、甲斐国を治めた河尻秀隆は、一揆により殺害されてしまいます。この甲斐国の河尻秀隆が殺害された経緯は、『三河物語』『德川実紀』『改正三河後風土記』にそれぞれ書かれています。そのなかで『三河物語』を私なりに現代語訳して紹介します。
「本多信俊は、河尻秀隆と知り合いなので、急いで秀隆を訪ねて、「あなたのところで一揆が起ったならば、(家康が)加勢するつもりでいる」と伝えると、河尻秀隆も「ありがたい」と返答したものの、秀隆は「(徳川家は)一猤を起して我々を討ち取ろうと考えて言ってきたのだろう」と思って、本多信俊をもてなしてから蚊帳(かや)を釣って寝させた後、河尻秀隆が長刀を持って来て、蚊帳の釣手(つりて)を切って落してそのまま突き殺した。一揆の人々はこのことを聞くとすぐに四方から押し寄せて川尻秀隆を打ち殺した」
このように『三河物語』に書いてあり、家康から一揆が起きたら加勢すると家康が善意で支援を申し出たところ、なにを勘違いしたのか、使者である本多信俊を殺害したため、一揆の人たちが河尻秀隆を攻め滅ぼしたようです。
続いて『三河物語』には、家康により、混乱した甲斐国に、大須賀康高、岡部正綱や穴山衆が派遣され、岡部正綱と穴山衆が甲府に着陣し、大須賀康高は市川口に着陣した。しかし、一揆は収まらなかった。そこに大久保忠世が到着し、さらに石川康通、本多広孝・保重父子が到着したので、ようやく甲斐国の混乱も収まったと書いてあります。
そして、家康自身は、7月3日に浜松城を発ち、9日に甲府に入っています。
この時の甲斐の混乱で殺害された河尻秀隆について補記しておきます。河尻秀隆は、信長の父信秀の代から織田家に仕え、信長のもとで黒母衣衆として活躍し、甲斐侵攻前には美濃国岩村城主として武田家と対峙していました。甲斐侵攻は信忠が総大将として進められましたが、河尻秀隆は、その副将として信忠を補佐し、武功をあげ、この功績により甲斐一国をあてがわれました。

