井伊直政、武田家の旧臣を付属される(「どうする家康」116)
「どうする家康」第30回で、井伊直政が家康から旧武田の家臣を付属させられることを聞いて感激する場面がありました。これ以後、井伊直政の部隊は、赤備えと呼ばれ、徳川家康軍の先鋒を任せられ大活躍することとなります。
このことについて、『徳川実紀』の付録巻三の最後に、「井伊直政赤備の由来」と題して書かれていますので、今日は、それを紹介します。
『徳川実紀』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それに従って、私なりに現代語訳して紹介します。
「(家康は)甲斐の一条(信龍)、土屋(昌恒)、原(昌勝)、山県(昌景)の組に属していた侍たちは、大部分が井伊直政の組に組み込まれ、『山県昌景の赤備は大変見事である』ということで、直政の備えを全て赤色になされた。この時、酒井忠次に甲州人を召し預けようと考えられたが、『それより若輩の直政を引き立てるために、直政に付属させよう』とおっしゃったので、忠次は承り、『仰せの通り直政は若年ですが臆している様子は見えませんので、あの者たちを付属させれば、ますます励むことでしよう』と申した。その頃、榊原康政が忠次のもとへ来て、『甲州人を半分ずつに分けて、私と直政の両人に付属されるはずであったのに、直政のみに預けられたのは海しいことよ。自分がどうして、あの若輩者(直政) に劣ることがあろうか。 この後もし直政に出会ったならば刺し違えようと思い、今生の別れに参った』と言うと忠次は『やれやれお主は愚かな人物であることだなぁ。殿は私に預けるとおっしやったのを、私が勧め申し上げて直政に付属させたのだ。それを聞き分けずに軽率な挙動を取るならば、殿へ申しあげるまでもない。お前の妻子一族をみな串刺しにしてくれるわ』と、怒り罵ったという。」
『徳川実紀』では、家康は若い井伊直政の将来性が高いと見込んで武田家旧臣を付属させ、酒井忠次もそれに賛成したと書いてあります。それ以外の理由は書いてありませんが、私が推測するに、家康に仕えて日が浅いうえに井伊家自体が中小領主であり家臣が少ないため、直政の軍団が整っていなかったためではないかとも思います。
武田家旧臣を付属された井伊直政は、その後、いろいろな合戦で大活躍し武功をあげ、「井伊の赤備え」の勇名を轟かせることになります。

