家康、黒駒合戦に勝利し、氏直と和睦する(「どうする家康」118)
「どうする家康」第30回で、鳥居元忠が北条軍と戦う場面がありましたが、この戦いが「黒駒合戦」と呼ばれる戦いです。天正10年8月6日、北条氏直が信濃から甲斐に侵攻し、若神子(山梨県北杜市須玉町若神子)に布陣し、新府城に本陣を構えた徳川軍と睨み合いになっていました。これを打開する為に、相模の小田原城で全軍の指揮をとっていた北条氏政は、弟の北条氏忠を大将とし、北条氏光(相模国小机城主)、北条氏勝(相模国玉縄城主)をつけた1万の軍勢を甲斐国都留郡に侵攻させました。
北条氏忠の軍勢は、御坂峠(山梨県笛吹市御坂町)の御坂城に着陣し、8月12日には、北条氏忠は御坂城を出撃し甲府盆地に侵攻ました。軍勢は2手に分かれて、氏光・氏勝らは東郡(ひがしごおり:東郡とは笛吹川以東を呼ぶ総称)方面へ、氏忠は御坂峠を下って黒駒(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)方面へと進撃しました。
氏忠は、甲府方面の徳川軍が手薄のあることを承知済みで甲府の侵入に成功したら直ちに若神子の北条氏直に向けて烽火を上げ、それを合図に新府城を攻撃する手はずとなっていました。ところが、氏忠軍は御坂峠を下ると間もなく兵を分散させて、放火と略奪行為に熱中し始めました。徳川方が小勢だと侮って油断していたのかも知れません。
一方、北条氏忠らの侵攻を察知した徳川軍の鳥居元忠、内藤信成、水野勝成、高力正長らはわずか1500人で迎撃に出ました。その結果、分散して放火と略奪行為に熱中していた北条軍は徳川軍に各個撃破され、各地で大混乱に陥り総崩れとなりました。さらに、鳥居元忠は上黒駒に回り込み敗走する北条軍の退路を遮断したといいますので、北条軍は追撃して来た徳川軍と激戦となりましたが、徳川軍の追撃は凄まじく、北条軍は御坂城の麓まで追い立てられて多数の戦死者を出し、総大将の北条氏忠は、逃げる途中で馬が動かなくなり、家臣の福島丹波守に馬を譲られたった一人で御坂城に逃げ込んだといいます。
こうした北条氏忠軍は完敗しましたが、北条氏直には、その情報は届かなかったといいます。そこで、家康は、黒駒合戦で討ち取った将兵の首級を若神子に布陣する北条軍によく見えるように懸け並べました。これを見た北条軍の衝撃は激しく、将兵たちの戦意も喪失したといいます。
また、黒駒合戦を契機に甲斐・信濃国内の徳川家への帰属を迷っていた国衆たちも続々と徳川家へ帰属するようになりました。さらに、小県郡の真田昌幸への調略が成功し真田昌幸が北条方から徳川方に替わりました。
さらに、若神子に布陣する北条軍の補給物資は、上野から信濃を経て甲斐の若神子に届けられていましたが、真田昌幸をはじめ信濃の国衆が徳川方になることによって、北条軍の補給がしばしば遮断され、若神子の北条軍は補給に苦慮することとなりました。
こうした状況の中、10月20日頃北条氏直から和睦の申し入れがあり、和睦交渉が開始されます。そして、10月29日に、①北条氏は、占領していた甲斐国都留郡(郡内)と信濃国佐久郡を徳川方に渡す。②徳川氏は北条氏の上野領有を認め沼田領も引き渡す。➂北条氏直の正室に家康の娘督姫を輿入れさせるという内容で和睦交渉が妥結します。
こうして、「どうする家康」で描かれていたように、督姫が北条氏直の正室として嫁ぐことになりました。
なお、黒駒合戦をはじめとした「天正壬午の乱」について書いた本がほとんどありません。そうした中で、『天正壬午の乱』(平山優著)では非常に詳しく解説されています。この記事も平山優先生の『天正壬午の乱』を参考にさせていただいています。

