家康と氏直、領土分割と婚姻を条件に和睦する(「どうする家康」119)
昨日、徳川家康が北条氏直からの和睦の申し入れに応じて和睦したと書きましたが、今日は、それについて詳しく書き加えておきます。
天正壬午の乱での和睦については『徳川実紀』『改正三河後風土記』に書かれてますが、『改正三河後風土記』のほうがより詳しく書かれていますので、国立国会図書館デジタルコレクションの原文に沿って現代語訳して紹介します。
「真田昌幸は生まれつき悪がしこい人なので、北条家をはなれて徳川家に降参したので、依田信蕃(のぶしげ)とともに碓氷峠に駐屯して、北条方の補給路を遮断した。北条氏直は甲州に在陣して、一度も勝利することができない上に兵粮の道を止められては一日たりとも在陣することができない。そこで、北条氏規(うじのり)は昔から家康と知り合いであるので、酒井忠次に便りをだして和議を申し出て『上州一円を北条へ渡せば、甲斐と信濃は徳川領と定めて決してそこに侵入しない。さらに徳川殿の姫君を氏直の正室として輿入れし長く両家の友好関係を結び、未来にわたって疎んじることはない』と申入れをしました。家康は、もともと寛容であり、それを請け入れることを許した。」
和睦の条件は①上野国は北条領とし甲斐・信濃は徳川領とすること、②家康の娘を氏直の正室として輿入れするということでした。
しかし、上野国を北条領とする条件については、上野国沼田領を治めていた真田昌幸が納得せず、のちに真田昌幸は上杉氏の支援を得て徳川家・北条家と争うことになります。「どうする家康」では真田昌幸を佐藤浩一さんが演じると発表されていますので、今後、この抗争も描かれると思います。
一方、徳川家と北条家の間の婚姻は、天正11年(1583)8月15日、家康の次女督姫が、氏直の正室として嫁ついだことにより実現されました。督姫(「どうする家康」では「おふう」と呼ばれています)は、家康の最初の側室西郡の方の娘です。西郡の方と「おふう」については、以前書いてありますので、参考に下記記事を御覧ください。
さて、北条側の和睦申し入れをした北条氏規(うじのり)は、北条氏康の五男で氏政の実弟であり、氏直からすれば叔父となります。氏規は、幼い頃、今川義元のもとへ駿甲相三国同盟の人質として送られ、祖母でもある義元の母寿桂尼のもとで養育されました。この頃、家康も人質として駿府にいました。しかも氏規と家康は屋敷が隣同士であったため非常に名が良かったといいます。そうしたことから、徳川家との和睦の申し入れをしたものと思います。
平山優氏「天正壬午の乱」によれば、氏規は「これ以後、氏規は徳川氏との外交を仕切ることとなり、この後北条氏内部では家康の娘督姫を娶る氏直とともに親徳川派の中心人物となる。このことは、北条氏滅亡時に氏直と氏規が死を免じられる遠因となり、後に北条氏再興を許されることにも繋がった。」といいます
北条氏は天正18年(1590)7月に豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡します。家康の女婿の氏直とともに氏規は助命されて高野山に追放されました。その後、氏直は秀吉により赦免されます。そして天正19年に氏直が死去すると氏規の息子氏盛が氏直の遺領を継ぎました。一方、氏規は秀吉より2千石を拝領し、後に7千石に加増されました。氏規は慶長5年(1600)亡くなります。享年56歳でした。氏規が死去した後は、嫡男氏盛が跡を継ぎ、氏盛は河内国狭山藩(現在の大阪府大阪狭山市)1万1千石を拝領して大名となりました。そして、狭山藩北条家は一度も移封されることなく河内国狭山を代々知行し明治維新を迎えました。

