池田恒興、女婿森長可とともに秀吉に味方する。(「どうする家康」123)
「どうする家康」第31回で、池田恒興と森長可(ながよし)が登場しました。池田恒興および森長可は小牧・長久手の戦いで重要な役割を果たします。そこで、今日は、池田恒興、森長可について書いていきます。
池田恒興は、清須会議にも四重臣の一人として参加していました。池田恒興は父池田恒利の嫡男として天文5年(1536)に生まれました。母養徳院が恒興と同じ年に生れた織田信長の乳母となりましたので、信長とは乳兄弟となります。若いころから信秀・信長に仕え、数々の武功を重ね、天正8年(1580)には摂津で荒木村重を倒し、摂津の有馬、尼崎、花隈(はなくま)の諸城を与えられ、さらに石山本願寺が降伏した後は大坂も領有しました。恒興は、本願寺の変後、光秀に加勢せず、秀吉とともに光秀を討ち、宿老の一人とされ、摂津国内10万石を与えられ大坂城に在城し、賤ヶ岳の戦いの後には、美濃国13万石を治めることになりました。
美濃国を与えられた池田恒興は大垣城に入り、嫡男池田元助を岐阜城に置き、次男輝政を池尻城(大垣市池尻町)に置きました。
そして、恒興の女婿森長可は美濃金山城(現岐阜県可児市兼山)を押さえていました。森長可は、美濃国金山城主森可成の次男として生まれました。織田信長に仕え、各地を歴戦し武功を挙げました。天正10年(1582)の甲州侵攻の際には織田信忠の有力武将として信忠に従って信濃・甲府に攻め込みました。その武功により、戦後、信濃国高井・水内・更科・埴科4郡を与えられました。その後,信濃国海津城に在城し越後の上杉景勝と戦い、本能寺の変の直前には高田城近くまで攻め込んでいましたが、本能寺の変勃発の報を聞くと越後から撤収し、木曽を経由して本領の美濃金山城に戻りました。その後、美濃を領有した織田信孝に属しましたが、翌年信孝に背いて秀吉に属しました。小牧・長久手の戦いの際には、舅の池田恒興に従って秀吉方として参戦しました。森長可は、勇猛で鬼武蔵の異名があります。また、信長の小姓で本能寺の変の際に信長に殉じた有名な森乱丸の兄です。
信雄は、恒興が信長と乳兄弟であるため自身に加勢するものと期待していましたが、恒興は秀吉方として参陣します。
『改正三河後風土記』によれば、秀吉は恒興に「味方をすれば美濃・尾張・三河三ヶ国を与える」と申し入れたので、恒興は家臣たちと相談したところ、ある家臣は信長公の御子孫に弓を引くのは恐れ多いので信雄に味方すべきだといい、別の家臣は、信雄に弓を引くのは恐れ多いが、信雄は暗愚であり秀吉のほうが優れているから秀吉に味方して殿自身と当家の興隆を図るべきだと進言し、多くの家臣がその意見に賛成したので、秀吉に味方することになったと書いてあります。

