池田恒興が犬山城を攻略し、主戦場が尾張となる(「どうする家康」124)
小牧・長久手の戦いは、主戦場は小牧と長久手という尾張国内でしたが、信雄・家康連合軍も秀吉も、当初、主戦場は伊勢国内になると考えていました。
小牧・長久手の戦いのきっかけは、天正12年(1584)3月6日に信雄が長島城で、秀吉に内通した嫌疑で津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三重臣を殺害したことでした。そして信雄は、三重臣の殺害とほば同時に津川義冬の居城である松ヶ島城へ滝川雄利を派遣し攻撃を行いました。
一方、秀吉は3月8日に長島城での事件を知ると堀尾吉晴に北伊勢への出陣準備を命じ、13日までに先鋒隊として蒲生氏郷、長谷川秀一、堀秀政、滝川一益らを伊勢に派遣しました。また近江国甲賀から関にかけての城には、浅野長政や一柳直末らが置かれ、大和の筒井順慶も伊勢国攻撃に加わっています。
こうした秀吉の動きに対し信雄は、北伊勢の領主に籠城の準備をさせました。そして、信雄は尾張と美濃の国境を守る大山城の中川定成も伊勢国へと向かわせました。
また、家康は長島城での三重臣殺害の翌日の7日には、浜松城を発って岡崎城に向かい三河衆も率いて3月13日に清須城に入り、先鋒隊酒井忠次は14日に桑名に到着しました。
このように、秀吉も伊勢方面へ攻勢をかけていて、信雄・家康も北伊勢を中心とした伊勢全域を主たる戦場と想定して、軍勢を配置しました。
そうしたなかで、城主中川定成が伊勢に出陣していた信雄方の大山城を3月13日に池田恒興・森長可が攻撃しました。池田恒興は犬山城主であったこともあると言われており、たった一日で攻め落としました。
池田恒興が犬山城を攻略したことにより、秀吉方が木曽川を越えて信雄の領国尾張に侵入しやすくなりました。そこで、家康は、桑名に着陣した酒井忠次らを尾張に引き返させました。
こうして、尾張を主戦場として信雄・家康連合軍と秀吉の戦いが開始されることとなりました。
そして、3月16日、美濃金山城主森長可が3,000の兵を率いて出陣し、犬山城から南へ離れた八幡林(はちまんばやし)に布陣しました。
これに対し徳川軍は酒井忠次、榊原康政、奥平信昌が5,000の兵で対峙し、3月17日に羽黒合戦(八幡林の戦い)が起こります。この戦いについては次回説明します。

