羽黒合戦で徳川軍が森長可を敗北させる(「どうする家康」125)
犬山城を攻略した秀吉方の森長可は、天正12年(1584)3月16日、犬山城から南方5キロほどのところにある羽黒(愛知県犬山市)まで進出してきました。これを察知した徳川方は、3月17日に酒井忠次を総大将として奥平信昌、榊原康政らが攻撃し、森長可の軍勢に勝利します。
この戦いが羽黒合戦(もしくは八幡林の戦い)と呼ばれます。その戦いは「どうする家康」でも描かれていましたが、『徳川実紀』にも書かれていますので、今日はそれを紹介します。『徳川実紀』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができるので現代語訳して紹介します。
「池田勝入(しょうにゆう)入道(※池田恒興は剃髪して勝入と称しました)というのは、右府(信長)恩顧の下で家臣となったが、これも時勢にひかれて秀吉の味方をし、まず尾張国犬山城を攻めとり、聟の森武蔵守長可とともに楽田(がくでん)、羽黒に撃ち出し、あちこち火をつけて回った。味方(徳川方)としては榊原康政、奥平信昌、酒井忠次、大須賀康高などがつぎつぎに撃って出て、森の軍勢に馬を馳せて攻めかかった。まず、軽卒を進軍させ、鉄砲をうちかけた。その中を奥平信昌の軍勢は、がむしゃらに羽黒村の小川を渡ろうとした。森長可は、「鬼武蔵」と呼ばれた血気の猛将であった。森の軍師に付けられた尾藤知定は、京都の近くの敵だけを相手にしていた戦い方を三河武士に押しあてて、川を渡ってくれば討ちかかろうとゆっくりと待っていたが、奥平信昌の三千余騎は容赦なく突きかかってきた。後ろから酒井忠次、榊原康政、丹羽氏次ならびに松平又七郎家信などが続いて押し渡り、地煙りを立てて槍を突けば、敵はどうしてこらえることができようか(そのため森の軍勢は惨敗した)。松平家信は時に16歳、野呂助右衛門という剛の者を討ち取った。(中略) 敵は、金扇の御馬印が遠くに見えると、徳川殿が出馬されたようだという程度で、みな色めき立ち、ついにかなわず犬山に帰った。」
この戦いに参加した徳川軍の軍勢は、酒井忠次、奥平信昌、榊原康政など歴戦の勇猛な部隊でしたので、鬼武蔵と呼ばれた森長可も持ちこたえられなかったようです。
森長可隊が敗北したと聞いた秀吉は、大坂城を発って、犬山城を経て28日楽田城に入城しました。家康は、13日に清須城に入った後、28日に小牧山城に入り、29日に信雄も小牧山城に入りました。(『愛知県史』通史編3p243より)

