秀吉本陣の楽田城跡と家康本陣の小牧山城跡(家康ゆかりの地53)
「どうする家康」第31回の冒頭は、秀吉が楽田城に入城し本陣とし、家康が小牧山城に入り、榊原康政の指揮のもと堀を築造するシーンでした。楽田城跡と小牧山城跡には5月に訪ねていますので、今日は、豊臣秀吉が本陣を構えた楽田城跡と家康が本陣とした小牧山城跡を紹介します。
⑴楽田城跡
楽田城跡は、名鉄小牧線楽田駅から南に5分ほど歩いたところにある楽田小学校の場所です。その正門前に塚がありそこに楽田城跡の碑が建てられています。(下写真は碑が建てられている塚です)

下写真が塚と楽田小学校の写真です。写真の左が楽田小学校です。右に写っている塚に楽田城跡碑が建っています。

塚の脇に犬山市教育委員会設置の説明板があり、次のように書かれています。(下写真)

楽田城は、織田久長により永正年間(1504~1521)に築城されたと伝えられています。戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、楽田城が急襲を受けた永禄元年(1558)の様子が書かれています。この時、城中に高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷の二階座敷を設けたとあります。天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦時には、小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、合戦終結の講和条件により取り壊しとなりました。楽田小学校の敷地は楽田城のあったところです。昭和54年に学校敷地が拡大されるまでは土壇や堀の痕跡がありましたが、現在は当時の面影を残すものはありません。犬山市教育委員会」
⑵小牧山城跡
小牧山城は、楽田城から西南方向5キロのところにありました。小牧山城が築かれた小牧山は、小牧市の中央部に位置する標高85.9mの独立した山であるため、周辺からも目立つ山です。現在、小牧山の麓までは、名鉄小牧線小牧駅から徒歩25分弱、タクシー10分弱の距離にあります。私はタクシーで行きました。下写真は麓から見た小牧山です。麓から頂上にある「小牧歴史館」まで登ってきましたが、かなりの高さがありますので、小ハイキングのようでした。

桶狭間で今川義元を破った織田信長は、美濃の斎藤氏を攻めるために、永禄6年(1563)、信長は頂上から美濃方面を一望できる小牧山に城を築き、清須から移りました。そして、永禄10年に美濃を手に入れると稲葉山城に居城を移しました。
信長時代の小牧山城の南側山麓には南北1.3km、東西1kmにわたる城下町を築かれていたそうです。下写真は、山麓に設置されていた小牧山城の模型ですが、手前(南側)には城下町が広がっていたそうです。

小牧・長久手の戦いでは、家康は小牧山城を本陣として秀吉に対峙しました。そのため、家康は、信長が築いた小牧山城に改修を加えて、山の麓を一周する土塁や堀などを新しく造りました。麓には帯曲輪について説明板がありました。それによると、城の麓の部分は帯曲輪地区と呼ばれていて山全体を取り巻いて新たに築かれた土塁の内側に多くの将兵を収容する機能があったそうです。「どうする家康」では、その土塁を利用して家康の軍勢が出撃したと描かれていました。その土塁が現在復元されています。下写真は大手口から撮った土塁の写真です。土塁の高さは8メートルもあるようです。小牧山城の土塁、堀や虎口などの改修は榊原康政が担当し、「どうする家康」でも描かれていたように榊原康政はたった5日間で終わらせたといわれています。

小牧山山頂には、天守の形をした「小牧山歴史館」があります。小牧山歴史館は名古屋市在住の実業家平松茂氏が私財を投じて建設し昭和43年3月に小牧市に寄贈したものだそうです。鉄筋コンクリート造、三層四階建てで、高さは19.3mあります。4階展望室の高さは標高100mだそうです。

山麓には小牧山城史跡情報館があります。ここでは小牧山城の石垣などの展示がされています。

下地図中央が楽田城跡です。
下地図中央が小牧山城跡です。

