池田勝入・森長可、長久手で討死し、秀吉軍大敗する。(「どうする家康」127)
4月6日、三河中入りのため秀吉軍の別動隊が行動を開始します。別動隊は、次の武将たちにより指揮されていました。第一隊(池田隊)池田勝入(恒興)、元助(恒興の長男)、輝政(恒興の次男)、第二隊(森隊)森長可、第三隊(堀隊)堀秀政、第四隊(秀次隊)羽柴秀次(当時は三好信吉と名のっていたようですが、「どうする家康」の名のりにあわせておきます)、木下祐久(すけひさ)・利匡(としただ)
一方、小牧山城の織田・徳川連合軍は、小牧山城に、酒井忠次、石川数正、本多忠勝らを留守居として、秀吉軍に察知されないように4月8日の夜間に動き出し、小牧山城から南東10キロほど離れた小幡城に入り、家康が率いる本隊と榊原康政らの支隊とに分けて9日朝までに小幡城を出ました。
9日早朝には、秀吉別働隊のうちの第一隊(池田隊)と第二隊(森隊)は小牧山城から南東20キロの岩崎城(現在愛知県日進市)に近づき、第三隊(堀隊)は金萩原(長久手市金萩付近)、第四隊(秀次隊)は、白山林(愛知県尾張旭市)に着陣していました。
池田隊と森隊が接近していた岩崎城の城主丹羽氏次は、小牧山城に詰めており、今回の中入り追撃隊の道案内を勤めていて、岩崎城は弟の丹羽氏長が守っていました。池田隊と森隊は、岩崎城のそばを通りかかりましたが、池田恒興は岡崎への道を急ぐため、岩崎城を攻めずに通過しようとしました。しかし、岩崎城を守っていた丹羽氏重らが、鉄砲を撃ちかけてきたため、これを攻め落としました。
一方、白山林に着陣していた秀次隊に対して、9日早朝、榊原康政ら家康支隊が奇襲攻撃しました。家康支隊の接近にまったく気が付いていなかった秀次隊は大混乱に陥り、秀次は細ケ根(長久手市荒田)付近まで逃げてきましたが、自分の馬も見失って、討死寸前まで追い込まれました。そこへ秀次の部将の木下利匡(としまさ)が、自分の馬を秀次にさし出して逃(のが)し、兄の木下祐久(すけひさ)とともに、追ってきた徳川軍と戦って討死しました。
堀隊は金萩原に到着していました。金萩原は岩崎城の北北東約2km、秀次隊の白山林からは南東方向に約4.5kmの位置にあります。ここで、堀秀政は、秀次隊が徳川勢の攻撃を受けたことを知りました。堀秀政は秀次隊救援のために引き返すことを決意し、桧ヶ根(ひのきがね:長久手市坊の後)の高台に向かい、徳川支隊の追撃に備えて迎撃の態勢を整えました。まもなく白山林で秀次隊を潰走させた徳川支隊が桧ヶ根に突進してきました。これに対して、迎撃の態勢を取っていた堀隊は徳川支隊を山上から攻撃しました。徳川軍支隊は、戦い続けていたこともあり、敗勢となりました。その頃、家康本隊は、桧ヶ根の東北にある色金山に着陣していました。家康は、そこから、桧ヶ根近くの富士ヶ根に本陣を移し堀隊を攻撃する準備をしました。富士ヶ根に家康本陣の馬印の上がるのを見た堀秀政は戦わずして兵をまとめて戦場を離れていきました。
岩崎城を攻略した池田隊と森隊は、秀次隊敗北の連絡を受けると、取って返しました。家康は、池田隊と森隊に備えて、仏ヶ根に陣を敷きました。
池田恒興は、池田元助、輝政隊を右翼、森長可隊を左翼とし、自身は後備えとしました。家康本隊の井伊直政隊は右翼の池田元助、輝政隊と激しくぶつかり合い、左翼の森長可は家康本隊の動きを見ていたが、家康本隊が森隊側に出てきたのを見ると激しく家康本隊にぶつかりました。森長可自身も家康本陣を突こうと攻め込みましたが、鉄砲により銃撃され即死しました。
森長可が討たれ左翼の森隊が崩れたため、池田恒興隊も徳川勢の猛烈な攻めを受けて、恒興は徳川方の永井直勝に討取られ、同じ頃、右翼方面で徳川勢の猛攻にさらされていた恒興の長男元助も安藤直次に討たれました。恒興の次男輝政は味方が敗走するなか戦場をかろうじて離脱しました。こうして、池田父子と森長可を失った池田隊、森隊は壊滅しました。
長久手の戦いで勝利をおさめた家康は、ただちに小幡城に入り、その日のうちに小牧山城に戻りました。
一方秀吉は4月9日昼ごろ、楽田の本陣で別動隊の敗戦を知り、すぐに大軍を率いて救援に向かいました。しかし、龍泉寺まで進んだ頃には家康は小幡城まで兵を引いた後でした。また、家康はその日のうちに小牧山城まで戻っており、秀吉軍は、翌10日に、なすすべもなく楽田城にひき返しました。
この戦いで、池田勝入は、永井直勝に討ち取られていますが、永井直勝が池田勝入を討ち取った様子は、寛政重修諸家譜の永井直勝の項に次のように書いてあります。
「(池田勝入は)しばらく山田の畷の辺にやすらい、黒糸の鎧を着し、篠の雪と名づけし刀を帯び、手に采配を執りて床几に坐す。永井直勝、蜂屋定頼、安藤直次とともにこの体を見て、よき敵なりと三人さきを争う。定頼等は谷間よりゆき、流れを渡らむとする間に、直勝、畷を伝い、速やかに馳せより鎗を執りて勝入と突き伏せ綿烟にとりつくところに、勝入短刀をもってきりはらう。直勝左の食指を斬られながら押さえて首を捕り、太刀采配を添えて首実検にそなえしかば、御感ありて勝入が帯せし篠の雪という刀を賜う。」
また、安藤直次が池田元助を討ち取った様子も『寛政重修諸家譜』の安藤直次の項に次のように書かれています。
「この時(長久手の戦いの時)直次勝入に鎗をつけ、永井直勝その首をとる。その息子元助、父の死を聞いて驚き馳せきたる。直次槍をもって突き通し、首をとり、また敵兵一人を突いてその帯びる刀を分捕る。」

