本多忠勝、長久手に向けて出陣した秀吉本隊に小勢で立ち向かう(「どうする家康」128)
「どうする家康」第32回で、本多忠勝が秀吉軍に立ち向かう勇ましい姿が描かれていました。『徳川実紀』によれば、長久手で大敗したと聞いて秀吉が大軍を率いて出陣した際に、本多忠勝は小牧山城から出撃し小勢で秀吉本隊を攻撃したと書かれています。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる『徳川実紀』巻三の当該部分を現代語訳して紹介します。(下写真は、岡崎公園の本多忠勝の銅像です。)

「秀吉は、楽田の本陣で長久手の先手が大敗したと聞いて『敵は今は疲れているだろう。急ぎ駆けつけて討ちとれ』とそのまま法螺員を吹かせ、総軍8万人余りを16段にして押し出した。小牧山に残された諸将の中でも、本多忠勝はこれを聞いて、『殿の軍勢が立て直さないうちに、秀吉軍が新たな大軍によって押しかけられれれば思いのほかの大事である。忠勝一人でも長久手に馳せ駆けて討ち死にしよう』というと、石川康通も、『もっともである』と同意し、忠勝も康通もわずかな軍勢で龍泉寺川の南を馳せ駆けて行くと、秀吉の軍勢は大軍で川の北を進軍していた。忠勝は、『私がここで秀吉軍の邪魔をすれば、その間に殿も軍勢を立て直せるだろう』ということで、秀吉の旗本へ鉄砲を撃たせて挑みかかった。さすがの秀吉も肝を潰し、『さてさて、不敵な者もいるものだ。誰かあの者を見知っているか』と問うと、稲葉一鉄が側にいたが、『鹿の角の前立物に白い引き廻しは、先年姉川で見覚えのある徳川股肱の勇士本多平八です』という。秀吉は涙を流し、『天晴(あっばれ)剛の者であることよ。自分自身はここで討ち死にして主人の軍を立て直そうと考えたものと思う。私は彼ら主従を最後には味方とし、家臣にしようと思うので、お前たち、決して矢の一筋も射ってはならない』と命じ、相手にしなかったので、忠勝も馬から下りて川辺で馬のロをすすがした。秀吉はその挙動に感心すること限りなかった。」

