榊原康政、秀吉を悪口で挑発する〈十万石の激文〉(「どうする家康」129)
「どうする家康」第32回で、徳川軍の本陣で、本多正信の発案により、榊原康政が中心になって、秀吉に対する罵詈雑言(悪口)を立て札に書いて、秀吉軍を徴発する準備をし、その立て札を手に入れた秀吉の本陣で池田勝入がそれを読み上げる場面がありました。
今年の1月に岡崎を訪ねた際に岡崎市内の乙川桜城橋の北側の緑道にある徳川四天王の石像を見てきました。榊原康政は徳川四天王の一人ですので当然、榊原康政の石像もありました。(下写真)

その榊原康政の石像の説明板には「十万石の檄文」と題して次のように書いてありました。

「十万石の檄文 榊原康政 徳川家康より6歳年下、同じ徳川四天王の本多忠勝とは同い年。家康は同盟していた織田信長の死より、頭角を現した家臣・羽柴秀吉と対立、1584年、小牧・長久手の戦い(現在の愛知県小牧市・長久手市ほか)に至る。この時、37歳の康政は、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉を非難する檄文を書いた。秀吉はこれに激怒し、康政の首を取ったものには褒美を与えるという触れを出したと言う。豊臣軍は、徳川軍の功名な戦術により長久手で大敗を喫している。この姿は、檄文を突きつけた冷静な康政の姿を再現したもの。」
そして、榊原康政が持っている立て札には次のように書いてあります。(下写真の右上部分)

「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視するあたわず、わが主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして蹶起せり。」
「どうする家康」で描かれていたのは、この榊原康政の「十万石の激文」のエピソードを描いたものです。池田勝入が読み上げた文章は、上記の立て札に書かれているものとほぼ同じです。ちなみに「どうする家康」では榊原康政が文章も書いていましたが、岡崎市の榊原康政の石像をよくみると右手に筆を持っています。
この小牧・長久手の戦いの際の榊原康政のエピソードは新井白石が著した『藩翰譜(はんかんふ)』に書かれています。『藩翰譜』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、当該部分を現代語訳して紹介します。
「(小牧・長久手の戦いで)秀吉が所々の戦いに負けて信雄と仲直りし徳川家康に好(よしみ)を結んで、ついに、(秀吉の)妹を浜松へ輿入れすることが決まり、(秀吉が)康政に京都に来るようにと望んだので、京都に登り、前もって富田左近将監の家を康政の旅宿に決めた。康政が京都に入った日、関白が康政が宿泊しているいる家に康政の手をとって、『今日の対面はうれしい。昔小牧の陣で康政が味方に回し文(まわしぶみ)にして、“大恩を忘れて主君の子を亡き者にしようとする悪逆非道の秀吉に与する価値があるか”と言い広げたので怒りを我慢できず、“康政を生きて捕らえた者には褒賞は望みのままである”と天下に告知した。しかし、今このように徳川殿と親しくなったので、康政のような家来が数多く仕えていることは私の喜びとなった。明日の面会が待ち遠しく思ったので(事前に)忍んできたのだ』と言った。(翌日)康政が秀吉と面会した際のもてなしは言葉に言えないほどであった。嫁取式(家康と旭姫との婚儀)の相談し、(康政は)引き出物を多く頂戴して帰された。」
下地図中央が榊原康政の10万石の激文像のある場所です。

