井伊直政、長久手の戦いで奮戦し赤鬼と呼ばれる(「どうする家康」130)
長久手の戦いで、池田勝入・森長可隊と戦ったのは家康が率いる旗本の部隊と井伊直政隊でした。井伊直政は、甲州征伐の後武田の旧臣を預けられ赤備えとするよう家康から命じられていましたが、井伊直政が率いる赤備えとしては長久手の戦いが初陣でした。この戦いで井伊直政隊は獅子奮迅の戦いぶりを見せて池田・森隊を壊滅させました。その結果、長久手の戦い以降、井伊直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになりました。そこで、今日は、長久手の戦いでの井伊直政の戦い振りについて書いてみます。
『徳川実紀』では、井伊直政が徳川本隊の先鋒として戦ったことが次のように書かれています。
「井伊万千代直政の2000兵余りを先陣として、旗本には小姓の者たちと甲州の侍だけを(家康)のお供として、直政の軍勢は富士の根の切通しから進むと、家康もその後から田の中をすぐに引き続いて進んだ。井伊の赤備えは長久手の巽(南東)の方角から『えいとう、えいとう』とかけ声を出して、堀秀政の軍勢に襲いかかった。
池田勝入、森長可の人数は、山際から扇の御馬印が朝日に輝きだしているのを見て、『これは徳川殿自ら出陣して来た』というそばから上下乱れに乱れて色めき立ち、直政が配下の者に下知して追いたてると、森武蔵守長可がまず討たれ、池田勝入も乱れた軍勢を立て直そうと下知したが、永井伝八郎直勝に突き伏せられ首を取られた。その子紀伊守元助も、安藤彦兵衛直次に討たれた。この軍勢の大将池田勝入・元助父子、森長可の三人とも討たれたので、戦おうとする者もなく軍勢は崩れに崩れた。」
長久手の戦いから、井伊直政が「赤鬼」と呼ばれるようになったことは、新井白石が書いた『藩翰譜』に書かれています(下赤字部分)。『藩翰譜』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、現代語訳して紹介します。
「(天正)12年3月、羽柴筑前秀吉が旧主の北畠信雄と不快の事ができて、軍(いくさ)が起こった。信雄から頼まれたので家康は尾張国に向かい、小牧に陣を敷いた。味方の軍勢はわずか1万5千ばかり、秀吉の軍勢は15万、こちらに向かって陣を敷き、2万余りを分割して三河国を襲撃しようとした。家康はこの情報を聞いて、それではこちらも出て戦おうと密かに軍勢を分けて自ら長久手に向かった。直政は先鋒として進んだ。味方の支隊の先陣(榊原康政隊)は、秀吉支隊の最後尾(秀次隊)を打ち破り、敵を散々に打ちのめした。(直政は)先陣の勢いと一緒になって取って返して戦おうとした。直政の赤旗、赤幟(のぼり)は朝日の光に輝いて山から駆け下りて戦場を縦横に駆け回って敵を破った。敵はついに敗北し大勢の大将が討たれたので、兵士はいうにおよばす京都の人々が直政を赤鬼と名づけたのはこの時からのことである。」
昨日紹介した岡崎市内の乙川にかかる桜城橋北の緑道にある徳川四天王の石像の一つは、鎗を持って敵に突撃する井伊直政の石像です。(下写真)

井伊直政の石像の説明板には「井伊の赤鬼」と題して次のように書かれています。(下写真)

「井伊の赤鬼 井伊直政 徳川家康より19歳年下。徳川四天王の中で最も若い。直政は武具を赤で統一した「井伊の赤備え」を率い、徳川家随一の精鋭部隊として後世に語り継がれている。赤備えとしての初陣は1584年の羽柴秀吉との小牧・長久手の戦(現在の愛知県小牧市・長久手市ほか)。この時、24歳の直政は自図からが先頭に立ち、敵陣へ駆け行った。戦いで武功を立てた直政は、以来、「井伊の赤鬼」として諸大名から恐れられたと伝えられる。これは、その勇猛果敢な姿を再現したもの。」
下地図中央が井伊直政の石像の位置です。昨日紹介した榊原康政の石像の北にあります。

