池田勝入・元助戦死の地に建つ勝入塚・庄九郎塚(徳川家康ゆかりの地54)
愛知県長久手市には、長久手の戦いにゆかりのある史跡が多く残されています。5月下旬に長久手市も訪ねていますので、今日は、池田勝入ゆかりの「勝入塚」と池田勝入の長男元助ゆかりの「庄九郎塚」をご案内します。
長久手市は長久手の戦いがあったことに思い入れがあるのだと思いますが、市内に「長久手古戦場」という駅があります。勝入塚は「長久手古戦場駅」から徒歩6分、庄九郎塚は「長久手古戦場駅」から徒歩3分と共に「長久手古戦場駅」からあまり遠くない地点にあります。
勝入塚は、池田勝入(恒興)が戦死したと伝えられる場所をしめす塚です。正面の大きな碑が「明治の碑」と呼ばれていて、明治24年7月に、池田勝入の子孫にあたる鳥取藩池田家16代の侯爵池田輝博により建立されたものです。(下写真)

その左横の「池田勝入信輝戦死場」と刻まれた石柱は「明和の碑」と呼ばれていて、江戸時代中期の明和8年(1771)尾張藩士人見弥右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際、立てたものです。

国史跡 長久手古戦場 勝入塚
池田恒興(1536〜84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。
恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。結局この地で家康の本隊と会い、仏が根の戦闘で戦死しました。恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。長久手市教育委員会

勝入塚から公園内を300メートルほど南に歩いた所に池田元助の戦死場所を示す「庄九郎塚」があります。正面の石碑は、「勝入塚」と同じように明治24年7月に池田勝入の子孫にあたる鳥取藩池田家16代の侯爵池田輝博により建立されたもので、「明治の碑」と呼ばれています。その左横にある石柱は明和8年(1771)に尾張藩士人見弥右衛門、赤林孫七郎が建立した碑で「池田紀伊守戦死場」と刻まれていて「明和の碑」とも呼ばれています。

長久手市教育委員会が建てた説明板には次のように書かれています。
国史跡 長久手古戦場 庄九郎塚
池田之助(ゆきすけ)(1564~84、庄九郎、元助、紀伊守)の戦死の場所と伝えられています。之助は池田恒興の長男で岐阜城主、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時は、父に従って参戦しました。父や義兄(森長可)とともに家康本拠の岡崎奇襲を企てましたが失敗し、戦死しました。残された一子元信は、秀吉の馬廻に取り立てられ、その後秀頼に仕えましたが、大阪城落城前には本家池田輝政(之助の弟)の家来になりました。塚名は之助の幼名庄九郎にちなんで名付けられたものです。長久手市教育委員会

最後に、明治24年7月に鳥取藩池田家16代当主である侯爵池田輝博が碑を建立しているので、池田勝入と鳥取藩池田家との関係を書いておきます。
長久手の戦いで池田勝入と嫡男池田元助が共に討ち死にしてしまいましたが、勝入の次男池田輝政は、長久手の戦いに参加していたものの家臣の説得により戦場を離脱しました。勝入・元助が亡くなっているため池田家の家督は輝政が相続しました。その後、輝政は、豊臣秀吉の仲介によって、家康の娘督姫を娶めとり、家康の女婿となり、徳川家と親戚となりました。輝政の妻となった督姫は、「どうする家康」に「おふう」として登場しています。督姫は、最初、北条氏直に嫁ぎますが、北条氏が滅んだ後、正室を離縁していた池田輝政の継室となります。そして、輝政との間に五男二女の子供を生みました。
輝政は関ヶ原の戦いで東軍に参加し、その前哨戦の岐阜城攻略で武功を挙げました。そこで戦後は三河国吉田15万2千石から播磨国姫路52万石へと大幅に加増されました。さらに督姫の生んだ次男忠継に備前国岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられました。輝政の弟長吉は因幡国鳥取6万石を治めていました。こうして池田輝政は、一族全体で92万石の大大名となりました。
輝政が亡くなった後、岡山藩主であった督姫が産んだ次男忠継は若くしてなくなり、その跡を三男の忠雄が継ぎます。そして忠雄も37歳で亡くなりました。忠雄が亡くなった時、忠雄の嫡子光仲は3歳であったため、池田家は鳥取に移封されました。それ以降、池田家は鳥取藩主として明治を迎えました。池田忠継を初代とする鳥取藩池田家の16代目が、勝入塚と庄九郎塚を建立した侯爵池田輝博です。
下地図中央が勝入塚です。
下地図中央が庄九郎塚です。

