秀吉、まず信雄と和睦し続いて家康とも和睦する(「どうする家康」131)
「どうする家康」第33回では、秀吉と信雄で和睦が決まり、家康も信雄が和睦したため大義名分がなくなったため、兵をひくこととなりました。
秀吉と信雄の和睦が正式に決まったのは天正12年11月ですので、長久手の戦いから約半年かかっています。そこに至るまで、家康と秀吉との間ではいくつかの戦いとにらみ合いがありました。そこで、今日は長久手の戦いから和睦に至るまでの経過を『愛知県史』通史編3に基づいて書いてみたいと思います。
長久手の戦いで敗北した秀吉方は、4月中旬までに羽柴秀長、筒井順慶、前田利家の軍勢が北尾張に到着し、軍勢を補強しました。また長久手の戦いで討死した池田勝入の本拠大垣城の留守居を羽柴秀次、池田元助の本拠岐阜城の留守居を羽柴秀勝が勤め、勝入の次男輝政が池田勢を率い、長可の弟忠政が森勢を指揮することになりました。
このように陣容を立て直したうえで、木曽川筋での戦闘に重点を移しました。
4月26日、秀吉方の主力が尾張北部から西部に移動しました。秀吉も本陣を5月初めには尾張西部の一宮(現在の愛知県一宮市)に移しました。こうした秀吉方の動きに対応して信雄も5月3日、本拠地を守るため伊勢長島城に帰城しています。
5月5日、加賀野井城を攻撃しました。加賀野井城は、現在の岐阜県羽島市にあり、加賀井重望が守っていました。秀吉は、ここを攻めることによって家康を小牧山城からおびき出そうとしました。これに対して、家康は、信雄から救援の要請を受けましたが、地理の不案内などを理由に要請を断っています。その結果、6日に加賀野井重望は降伏し開城しています。ちなみ、後のことになりますが、加賀野井重望は、関ケ原の戦いの直前に水野忠重、堀尾吉晴と口論し、水野忠重を殺害し、堀尾吉晴を負傷させましたが、加賀野井重望も堀尾吉晴によって殺害されました。
加賀野井城を攻略すると直ちに秀吉は竹鼻城を攻撃します。竹鼻城は、現在の岐阜県羽島市竹鼻町にありました。竹鼻城は、木曽川近くに築かれた城であるため、秀吉は高鼻城を水攻めにします。時間のかかる水攻めとすることにより、家康を小牧山城からおびき出す目論見があったと言われています。しかし、家康は、今回も小牧城から救援に出ることはありませんでした。その結果、6月3日、竹鼻城は開城しました。竹鼻城開城後、秀吉は大坂城に帰城しています。
秀吉が大坂に去ったことを受け、家康も6月12日小牧山城を酒井忠次に預け清須城に移りました。
すると、6月16日、滝川一益が尾張国海部郡蟹江(現在の愛知県海部郡蟹江町)にあった家信雄方の蟹江城を攻略しました。蟹江城は、清須城と長島城の中間地点にある重要な城であることから、家康は同日中に出陣し奪還に着手しました。そのころ秀吉は大坂城にいましたが、大坂城を出て近江・伊勢に至りました。しかし、信雄・家康方との戦いはなく6月28日に大坂城に帰城しました。
蟹江城は半月籠城を続けた後、7月3日には蟹江城が開城しました。家康は7月13日清須城に帰城し、信雄も長島城に帰城しました。秀吉は7月9日に美濃に出陣しているものの7月末には大坂城に帰城しました。その後、8月に秀吉は尾張に出陣し、家康も清須城から出陣していますが、大きな戦いはありませんでした。
そして、9月2日には、どちらかわわかりませんが和睦の話が出てきて、信雄と家康らが人質を出すことで話が進んでいましたが、結果的にまとまりませんでした。
秀吉は10月6日に大坂城に帰城しました。そして、10月20日過ぎには大坂城を出て北伊勢に向かい25日は伊勢神戸に着陣しました。そして、美濃からは羽柴秀長が木曽川沿いに南下してきました。こうして、信雄の本拠長島城を南北から攻撃する体制を整えました。
そのような情勢下で、11月11日(もしくは12日)に信雄と秀吉の間で和議が整いました。そして、家康と秀吉の間で13日に和議が整いました。
15日に信雄と秀吉は尾張伊勢国境で会見し、信雄はわずかな供を従えて現れ、秀吉は涙をこぼして和睦に応じたそうです。
家康は、翌16日清須城を発ち、徳川勢は尾張からの撤兵を始めました。
こうして小牧・長久手の戦いが終わりました。

