信雄は、家康に黙って秀吉と和睦したのか?(「どうする家康」132)
小牧・長久手の戦いの後の秀吉と信雄および家康との和睦について、よく「信雄は家康に黙ったまま秀吉と和睦をした。総大将である信雄が和睦したため名目を失った家康も和睦した」と言われます。
例えば、『新編岡崎市史』には次のように書かれています。「家康は(9月)27日に清洲へ移り、10月17日岡崎へ帰ったが、11月に秀吉の伊勢出陣を聞き、同9日に清洲に出た。ところが11日、信雄は家康に相談せず秀吉と講和を結び、戦う名目を失った家康は岡崎へ引き上げ、21日に浜松に帰った。12月14日に信雄は浜松に来て援兵に感謝するとともに、秀吉が家康の一子を養子に希望している旨を伝えた。間接的ではあるが和議の交渉である。家康は次男於義丸(時に11歳)を贈ることにした。(中略)養子というのは口実で、於義丸はいわば人質であった。すでに9月の和平交渉の際に秀吉は人質の提出を求めていた。それが今回に引き続くわけであるが、これによって和議が成立し、家康の名誉が守られたことになる。」
そして、小和田哲男氏も『秀吉の天下統一』の中で次のように書いています。「秀吉は、信雄を心理的に追いつめていった上で、講和の話をもちかけた。それも、信雄と家康一緒にではなく、家康には隠したまま、信雄一人に話をもちかけている。その結果、11月15日、秀吉は伊勢桑名の東、矢田川原で信雄と会見し、単独講和を結ぶことに成功した。(中略)信雄が秀吉と単独講和をした結果、家康は秀吉と戦う名分を失った。家康は、信雄が秀吉と戦うというので手を貸すというスタンスだったわけで、家康としては、これ以上、秀吉と戦いを続ける理由がなくなったのである。『家忠日記』 の11月16日条に、「御無事相済候(おんぶじあいすみそうろう)て、家康御馬入れられ候」とあるように家康も講和に応じている。家康は、二男の於義丸を秀吉に差し出している。これは、名目上は養子という形をとっているが、実質は人質である。」
これらの記述を読むと信雄は家康に黙って和睦をしたというのが有力な説のように思われます。
しかし、『愛知県史』では、昨日書いたように「11月11日頃に信雄と秀吉が和睦に合意した。(中略)13日、秀吉と家康の和睦が成立した」と書いてあり、信雄が秀吉との和睦交渉を秘密にしていたとはまったく書いてありません。
また、本多隆成氏は『定本徳川家康』の中で次のように書いています。
「やがて9月になると、和議の話が出るようになった。『家忠日記』によれば、この時の和議は7日には決裂するが、秀吉側からは、織田信雄への工作か強められていたようである。11月11日についに信雄は和議に応じ、秀吉に人質を提出し、北伊勢五郡を除く伊勢国と伊賀国を引き渡すことになった。和睦とはいっても対等のものではなく、実際には信雄は秀吉に敗北したのである。信雄の和睦にともない、家康も16日には岡崎に帰り、三月以来の合戦はようやく終わった。12月12日には秀吉への人質(養子ともいう)として第二子於義伊(のちの結城秀康)が浜松を発ち、石川数正と本多重次の子息、勝千代と仙千代がこれに従った。秀吉方優位の和議であったことが、このような点からも知られるのである。」と書いてあり、信雄が和睦交渉を家康に黙っていたとは書いてありません。
このように『愛知県史』や『定本徳川家康』も読んでみると、信雄が和睦交渉を秘密にしていたということが絶対的な通説でもないように思います。
私は、『愛知県史』のように信雄が11月11日に和睦し、家康が、その翌日12日に和睦したのであれば、家康が信雄の動きを全く知らずに和睦を結ぶと言うことは不可能なことのように思います。しかし、どちらが正しいのか私には判断はくだせません。見解の相違があるということだけを紹介しておきます。

