森長可が戦死した地に建つ「武蔵塚」(徳川家康ゆかりの地55)
小牧・長久手の戦いに関する記事は概ね書いてきました。これからは真田氏との戦いや石川数正の出奔などを書いていこうと思いますが、長久手の戦いのゆかりの地がまだ書き終わっていませんので、今日は森長可の戦死地を示す「武蔵塚」をご案内します。
古戦場公園から西方へ少し歩くと、住宅街の中に「武蔵塚」があります。長久手古戦場駅からは徒歩で約7分かかります。
武蔵塚は、公園の一画に建てられています。塚の入り口には長久手市教育委員会が設置した説明板があります(下写真)。それには次のように書かれています。

国史跡 長久手古戦場 武蔵塚
森長可(1558~84、庄蔵、武蔵守)の戦死の場所と伝えられています。
長可は美濃(岐阜県)金山城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方しました。 舅池田恒興らとともに、家康の本拠地岡崎を突こうとして失敗し、4月9日の仏が根の戦闘で戦死しました。
長可は、天正10年(1582)の本能寺の変で、信長とともに落命した蘭丸の長兄で、勇猛果敢な武将として知られています。
塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです。
長久手市教育委員会
塚の正面には「森武蔵守長一戦死場」と刻まれた石柱が建てられていて左手には石柱は明和の碑と呼ばれているもので、明和8年(1771)に人見弥右衛門と榎林孫七郎が建てたものです。左には明治の碑と呼ばれる大きな石碑が建てられています。下写真の左手に石碑があります。

石碑は、明治31年4月森長可の15世孫の子爵森長祥が建てたもので「森公遺蹟碑」と刻まれています。(下写真)

森長可が討死した後、森家は長可の弟の森忠政が継ぎました。森忠政は秀吉に仕え、秀吉死後、信濃川中島領を拝領しました。川中島は森長可が織田信長から拝領した土地で、森忠政が家康に特にお願いして拝領したものと言われています。関ヶ原の戦いの翌年、小早川秀秋が亡くなり、小早川家は改易となりました。小早川家が治めていた美作国一国18万6,500石(津山藩)に移封されたのが森忠政です。森家は5代にわたり津山藩主でしたが5代目衆利(あつとし)が発狂したことから改易となりました。その後、森家は備中国西江原藩主として再興され、宝永3年(1706)に播磨国赤穂藩に移封され、それ以降13代にわたり赤穂藩主を勤め明治維新を迎えました。また、津山藩には津山新田藩という支藩がありましたが、津山新田藩は、津山藩森家が改易された際に播磨国三日月藩に移封され明治維新を迎えました。武蔵塚の明治の碑に名前を残す森長祥は播磨国三日月藩森家の子孫です。下地図中央が「武蔵塚」です。

