石川数正、徳川家中で孤立し、出奔する(「どうする家康」135)
石川数正は、天正13年(1585)11月13日に岡崎を出奔しました。石川数正は、家康が駿府で今川家の人質であった時から家康に近侍して以来、家康に忠実に仕え、酒井忠次とならぶ重臣中の重臣で、当時は、岡崎城城代を勤めていました。数正は、天正11年に賤ケ岳の戦いの戦勝祝いのため秀吉のもとを訪ねて以来、しばしば秀吉への使者となり秀吉と親しく接する中で、秀吉とは戦うのではなく融和を図るべきだと考えるようになりました。
小牧・長久手の戦いの和睦条件として、於義伊(のちの秀康)が養子という名目で人質として大坂に送られ、数正の長男勝千代(のちの康長)も人質として送られていました。しかし、和睦した後も、上洛をしない家康に対して秀吉は新たな人質を要求してきました。秀吉の要求に対してどうするか徳川家の中では相談されたが、数正は応じるべきであると意見をいったが、多くの家臣たち拒否すべきという意見であり、数正は全く孤立することとなりました。こうした状況の中で、数正は出奔という行動に出ました。
石川数正の出奔については、『徳川実紀』や『三河物語』には、ほとんど書かれていませんでした。そんな中、『改正三河後風土記』には詳しく書かれていましたので、『改正三河後風土記』に書かれている「石川数正岡崎退去」の項を私なりに現代語訳して紹介します。
「石川伯耆守数正は徳川家譜代の功臣で酒井左衛門尉忠次とならんで軍事を掌って。その権威は肩を並べるものはいなかった。そのため、岡崎城を守護し、人質を預かっていたが、数正はどうしたことか、小牧山に在陣していたころから、内々に志を関白秀吉に通じていた。このことを家康の耳に入ったけれども、「数正は譜代の重臣である。その上、目をかけているから秀吉に内通するはずがない」と言って疑いもしなかったが、数正がしばしば大坂との和睦を進言したが、(家康は和睦を)許さなかったので「近いうちに関白は大軍をもって攻めてくる。その時には大きな合戦があるだろう。私の子供勝千代は秀康の御供として大坂にいるので、捨て殺されることがつらい」と心中大変に悩んでいると、関白は例の如く仲をさくことを得意としていて、数正と親しくなって上手に家康との仲をさくため『数正は徳川家の第一の重臣であるから、彼を味方にするには計略を施すのがよい」と考え、数正の武勇を非常に欲しがっているようにもてなして、「もし徳川家を去って大坂に帰順すれば10万石を授ける」と言って誘われたため、数正は子供可愛さと利欲によって、義操を変えて、不義無道の人となった。人の心が利欲にひかれやすい習性ほど恐ろしいことはない。(中略)
石川伯耆守数正は早々に大坂に馳せのぼって関白のところに参上したら、定めし関白は大変喜んですぐにでも10万石を拝領できるだろうと思っていたが、予想外にも、10万石の通知もなく、屋敷は拝領したがそれほど手厚い処遇もなくて、数正も世間の噂を恥じてか、門を閉じてしばらく屋敷に引きこもっていたという。すると、数正の門の扉に次のような落首が貼り付けられた。
徳川の家につたわる古菷(ふるほうき)落ちての後は木の下をはく
家康のはき捨てられし古菷都へ来てはちりほどもなし
*石川数正は伯耆守を名乗っていました。ここに紹介されている落首に書かれている箒は伯耆守つまり石川数正を意味しています。
数正はこれをみて赤面しただろう。この人若い頃から自分の身をかえりみず忠義をつくし、今川家から人質交換で、若君(信康)を肩にのせ岡崎に帰った時、三河国中の人々が涙を流して感激しない人はいなかった。三方ヶ原の戦の際に、弓懸(ゆがけ)のさし緒を結ぶ方法を知らないのを恥じて美濃の浅岡という人物に習ったが、そのことを聞いた武田信玄が「武士の弓矢の道をたしなむには、誰であってもこうありたいものだ。徳川の弓矢は侮り難い」と評したという。これほど義を立てて道を嗜む勇士が、晩年になって、それまでの志を捨てて、昔から仕えた主君に背いて汚名を後世に残すことは、最も戒めることだ。」
『改正三河後風土記』は、江戸時代後期に編纂されたものですから、秀吉の利得を持って篭絡されたとしていて、どうしても石川数正に厳しい口調となっています。

