家康、天正地震により秀吉の成敗を回避―まさに天祐(「どうする家康」136)
天正12年(1584)12月12日に秀吉に対して於義丸(後の秀康)を養子(実質人質)に出すことにより、家康は、秀吉と和睦しました。これにより、小牧・長久手の戦いは一応終結しました。
小牧・長久手の戦いの主戦場は北尾張とした信雄・家康連合軍と秀吉の戦いでしたが、その一方で、全国各地の秀吉派と反秀吉派を巻き込んだ全国的な戦いでもありました。
信雄・家康に協力した勢力には、紀州の雑賀衆や根来衆、さらに越中の佐々成政、四国の長曾我部元親などがありました。彼らは、家康に協力して、背後から秀吉を脅かしていました。
こうした反秀吉勢力に対して、秀吉は小牧・長久手の戦いが終わりとなると、天正13年(1585)に個別に攻撃し、それぞれを屈服させています。
最初に手掛けたのが紀州の根来衆や雑賀衆攻撃です。秀吉は、根来衆や雑賀衆を中心とした紀州の反秀吉勢力攻めを秀長と秀次に命じ、天正13年(1585)3月21日に開始させました。そして、まず根来寺を攻略し、次いで粉河寺を攻略した後、雑賀衆が籠城する太田城を3月24日に包囲し攻撃しました。そして、4月22日に太田城は降伏し開城しました。
次に、四国征伐に着手しました。6月中旬に秀長を総大将とし秀次を副将として、阿波に攻め込みました。さらに宇喜多秀家・蜂須賀正勝。黒田如水らに讃岐から攻め込ませ、伊予からは小早川隆景・吉川元長(元春の嫡男)らが攻め込みました。こうして、三方から攻め込まれた長宗我部元親は各地で戦ったものの敗戦を続け、8月6日までに降伏しました。
この後、8月8日には、佐々成政を攻めるため秀吉自らが出陣し18日には加賀に入りました。大軍が押し寄せたため、佐々成政は戦わずして8月26日に降伏しました。
こうして、畿内周辺にあった反秀吉勢力をすべて降伏させた秀吉ですが、難問がありました。それは、小牧・長久手の戦いで和睦した家康が臣従していなかったことです。
秀吉は、家康に対して追加の人質を要求しました。しかし、家康は10月28日に家臣を集めて評定した結果、その要求を拒否することにしました。
家康の対応をみて秀吉は本格的な家康征伐の準備を始めました。この頃、家康は、11月13日に重臣石川数正が出奔すると一大事が起きていました。さらに、信濃では真田昌幸との抗争が続いている中、深志城の小笠原貞慶が秀吉側に帰属するという事態が発生していました。このように領内で苦境に見舞われた家康が、秀吉の大軍の来襲を受けたならば、軍事力により臣従せざるをえなかったと考えられています。この頃、秀吉は家康成敗を本気で考えていたようで、『徳川家康の決断』(本多隆成著)p152によれば、天正13年11月19日付の真田昌幸宛の秀吉の書状には、人質を断った家康を軍勢を出して成敗すると決めたと書かれており、大垣城主一柳直末にも来年1月15日以前に出向くので油断なく陣の準備をするようと申し送っているとのことです。
しかし、家康にとって、まさに天祐ともいうべき事態がおきました。それが天正地震の発生です。天正地震は天正13年11月29日に発生し、畿内およびその周辺に甚大な被害をもたらした地震です。
天正地震により、京都では八坂神社の拝殿や鳥居が倒壊し、近江長浜城もつぶれ、城主山内一豊の娘が圧死しました。伊勢では織田信雄の居城長島城が倒壊し、美濃では大垣城は全壊した上、出火によって城中すべてを消失しました。さらに飛騨や越中にまで被害が広がっており、飛騨では山腹の大崩落により帰雲(かえりぐも)城が埋没し城主内ケ島氏以下多くの領民が死亡し、越中では砺波(となみ)郡木船城が崩壊陥没し、城主前田秀継(前田利家の末弟)も死亡しています。
このように、秀吉の足元の畿内の被害が大きく、家康征伐のための通り道となるべき、美濃・尾張・伊勢も甚大な被害を蒙っているため、家康成敗どころではなくなり、秀吉は出陣は取りやめました。まさに「どうする家康」で秀吉がつぶやいていたように「家康は運が良かった!」のです。

