家康、秀吉の妹旭姫を娶る(「どうする家康」137)
天正13年(1585)11月29日午後11時頃に発生した天正地震により軍事力で家康を屈服させることをやめた秀吉は、強硬策から融和策に転じました。そこで、秀吉は、実力行使をやめて家康に上洛するよう交渉しました。しかし、それでも家康は上洛しませんでした。困った秀吉は、妹の旭姫(朝日姫とも呼ぶ)を家康の正室に輿入れさせるという案を考えだしました。これが、『徳川実紀』が書いている旭姫の輿入れに至る経緯です。 旭姫の輿入れについては国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる『徳川実紀』には次のように書いてあります。私なりに現代語訳して紹介します。
「家康は秀吉の妹を娶る
(家康に上洛を促す秀吉からの)使者は(京都に)帰り、この様子(上洛を拒否する家康の様子)を伝えると関白は再び信雄と計らい、家康の北の方(正室)は先年、事件が起こったあといまだ正室となったという方も聞かない。秀吉の妹(旭姫)を差し上げたいと丁寧にお願いした。浅野弥兵衛長政などがうまく間を取りもって、ついに御縁を結ばれることに定まったので、浜松から納采(のうさい:結納)の御使として本多忠勝を遣わした。これも関白が無理やりに忠勝を指名して呼び寄せたのである。
4月10日、妺君(旭姫)は聚楽第を出発され、同じ21日浜松へお着きになった。まず榊原康政のもとで、御衣装を整えたのち輿入れした。御輿渡は浅野長政、御輿請取は酒井河内守重忠であった。その夜の式は言うまでもない。22日結婚披露宴など、すべて関白が指図されたので、万事美麗を尽くした様子は言いようがない。この方はのちに南明院殿(なんみょういんでん)と申した方はこの人のことである。」
旭姫は、秀吉の母なかと竹阿弥との間に生れた秀吉の異父妹です。秀長もなかと竹阿弥の間に生まれていますので、秀長にとっては同父妹です
『豊太閤と其家族』(渡辺世祐著)によれば、旭姫は、佐治日向守と結婚していましたが、秀吉は佐治日向守には離別を命じるとともに500石の加増しようとしましたが、佐治日向守は離別は命令のままに了解しますが加増を受けることは武士の面目にかかわることですとこれを辞退したといいます。その後、佐治日向守は自殺したとも剃髪して洛外に閑居したとも言われていますが、確かなことはわかないようです。
以上が『徳川実紀』に基づく話ですが、『徳川家康の決断』(本多隆成著)や『徳川家康』(柴裕之著)によると、家康は秀吉からの和睦の申し入れを受諾し、秀吉との縁戚関係の強化を求めた結果、秀吉が旭姫を輿入れさせたと書いていますので、『徳川家康』(柴裕之著)をもとにお二人の見解を追記しておきます。
織田信雄は天正14年正月27日に岡崎城を訪ねて、家康に和睦を勧めました。これに対して家康は和睦に応じることにしました。2月秀吉は家康を許すことしました。それにより、家康と争っていた上田城の真田昌幸に停戦を命じました。 こうした事態を受けて、家康は同盟を結ぶ北条氏の最高権力者である北条氏政と三島で会談を、同盟関係を確認しています。
家康が秀吉との縁戚関係強化を求めたため、秀吉は、妹の旭姫を家康の正室として輿入れすることとし、4月28日に輿入れすることを決めました。これに対して家康は天野康景を御礼の使者として秀吉のもとに遣わせます。しかし、秀吉は天野康景とは面識がなかったため、秀吉の知らない家臣を使者に遣わせたと怒り出し秀吉の知っている酒井忠次か本多忠勝か榊原康政を遣わせるよう要求しました。そして、このため、婚礼が延期されてしまいました。こうした事態を受けて、家康はこの話を破談にしようと一旦は考えましたが、仲介者となった信雄の顔をたてて、改めて本多忠勝を御礼の使者として遣わせました。こうして旭姫は5月14日に浜松城に輿入れしたと言います。
これにより、『徳川実紀』に本多忠勝が納采の使いに遣わされた経緯がよくわかります。また、旭姫の輿入れ日は『家忠日記』に基づくものですので、5月14日が正しいと思います。

