秀吉は、天正13年には本気で家康を滅ぼすつもりだったようである(「どうする家康」141)
秀吉が家康を武力制圧するつもりであったが天正地震が起きたため、秀吉の武力総攻撃がなくなったと先日のブログで書きました。詳しくは、下記ブログをお読みください。
その際に、秀吉は、真田昌幸に出した手紙の中で、家康を断固討つつもりであると述べていると書きました。
その手紙が、『長野県史』関連資料『信濃史料補遺巻上』に記載されていましたので、その内容を確認しました。そこには、秀吉は「軍勢を出して家康を討つつもりである。しかし、今年(天正13年)は押し迫ってきているので、来年の正月の15日以前に出陣するつもりである」と書いてあります。
これを見ると、秀吉は、本気で家康を成敗するつもりだったことがよくわかります。もし秀吉の総攻撃が行われていれば、家康は滅びるかあるいは力の前に屈服するかのいずれかであったと思われます。
真田昌幸あての手紙の原文は下記のように漢文です。
「対天下、家康表裏相構候儀、条々有之付而、今度石川伯耆守為使、相改人質以下之儀申出候処ニ、家康表裏重々有之段、彼家中者ニも依存知ニ、家康宿老共ニ人質不出付而、石伯去十三日足弱引連、尾州迄罷退候事」
これでは読むのが難しいので、私なりに現代語訳したものが次の通りです。
「わざわざ飛脚を利用して伝えます。
1つ、天下に対して、家康は表裏のある人物でいろいろなことがあるので、今度石川伯耆守(数正)を使として、人質を新たに出すよう要求したところに、家康は、家中の者たちも承知したうえで、家康の重臣たちの人質を出さないとなったので、石伯(石川伯耆守数正)がさる13日、老人・女・子供も引き連れて、尾張まで出奔したこと。
2つ、 この上は、人数を出して、家康を成敗(せいばい)するよう命じることに決定した。殿下(秀吉)が御出馬するのは、今年の年内はあまり日にちがないため、(来年の)正月十五日以前に出陣するので、その方には出陣を必ず申し付ける。
3つ、信州・甲州両国については、小笠原貞慶・木曽伊予守(義昌)と相談し、諸事申し合わせて、越度(おちど)ないように心を配ること。、
4つ、その国(真田昌幸の領国)へもその方より申出があり次第に人数を差し遣わす考えであること。
5つ、今年は、右に申したように、残り日数が少ないので、来春正月出馬の際に、(真田昌幸の)領国へも人数を差し遣わして、もみ合て、かの悪逆人(家康のこと)を成敗するので、小笠原(貞慶)とその方手前(真田昌幸)、春までの間は、諸事に気を遣って、用心等落ち度ないように心えることが肝要である。
6つ、その国(真田昌幸の領国)については、道茂(秀吉の側近と思われるが具体的な姓は不明)に詳しく書いた手紙で連絡してくること。これからも追々連絡する予定である。 秀吉(花押) 真田安房守(昌幸)殿
以上が全文です。原文は、箇条書きで「一つ…、一つ…」と書いてありますが。ここではわかり安いように「1つ…、2つ…」としてあります
ここで重要なことは第2項で、内容は冒頭に書いた通り軍勢を出して家康を討つつもりである。しかし、今年(天正13年)は押し迫ってきているので、来年の正月の15日以前に出陣するつもりである」ということです。
その他、秀吉から、人質の追加を要求したが、家康は家臣たちと相談した結果、秀吉の要求を断ってきた。そして、その結果、(孤立した)石川数正が出奔したことも知らせてあります。
石川数正が出奔してまもなくの11月15日に家康は、信濃に在陣していた大久保忠世や平岩親吉ら諸将に、急遽、浜松に撤兵するよう指示しています。
真田昌幸は、この撤兵の動きは、すぐに把握しましたが、撤兵の理由まではわからなかったようですので、秀吉からの便りで、その理由を正確に掌握したものと思います。