大政所が人質となり、家康、上洛を決意する(「どうする家康」142)
秀吉が旭姫を家康のもとに輿入れさせたものの、家康は上洛しませんでした。そこで、秀吉は、母親大政所を追加として人質に出すこととしたため、ようやく家康は上洛を決意しました。
そのことについて、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる『徳川実紀』付録巻五では次のように書いてあります。
「秀吉は妹の旭姫を御台所として嫁がせ、その上に母の大政所も岡崎に下向させて、御上洛を勧めたので、『今は一概に固辞するのもあまりにも無分別である。どうすればよいか』と(家臣たちと)相談した。酒井左衛門尉忠次らの重臣が言うには、『秀吉の心中をおもんばかることはできません。上洛することはよいこととは思いません。もし秀吉が怒って大軍で攻めてきたとしても、上方勢の手並みは長久手の戦いで見透かしたので、恐れることはありません』と、(重臣)全員が上洛を制止した。家康は、これを聞いて、『お前たちが言うことももっともだ。しかし、よく考えてみよ。我が国は応仁年間からこれまで大乱が続いて、天下の民は一日として安心していられることがない。今、天下がようやく収まろうとしている時に及んで、私がまた秀吉と戦えば、騒乱はますます収まることがなく、人民はこのために命を落とす者も多いだろう。何と痛ましいことであろうか。それゆえ、私の一命で天下万民の命に代えて、私が上洛しようと思う。』とおっしやったので、忠次らも『そこまで考え決心していることならば、私達家臣は何も申し上げることはありません』と言って退出した。(中略)さて、都に向かい出発するにあたり、御留守を命じられた者に言い置いたのは、『もし私が都で事があったと聞いたら、大政所、御台所をすぐに京に返すようにしろ。 この人々はもともと関係がない。また家康は、婦人を人質に取ったなどと人に笑われるのは、死後末代までの恥辱であるので、絶対に卑屈な振る舞いはするな』と繰り返し言い置いたという。」
前述のように『徳川実紀』には、「大政所、旭姫は関係がない」と家康が言ったと書いてありますが、岡崎城で留守を預かっていた本多重次(重次の通称は作左衛門であるので本多作左とも鬼作左とも言われます)が岡崎城内の大政所が滞在している部屋のまわりに薪を積み上げて、万が一大坂で事が起きたら大政所を焼き殺そうとしたという逸話が有名です。本多重次は、もともと「どうする家康」に登場していないので、「どうする家康」では井伊直政が薪を準備するというシーンとして描かれていましたが、この話は『寛政重修諸家譜』の本多重次の項に井伊直政とともに一緒に薪を積み上げたと書いてあります。
「(天正)14年再び太閤と和議が整い家康が上洛するので、太閤の母大政所が人質として岡崎に下向した時のこと、井伊直政と本多重次に大政所を守護させた。大政所は、大坂に帰ったあと太閤に『岡崎で井伊直政と本多重次が私の住んでいた所を守っていたが、側に薪を積んで、家康が上方で変事があったら、即座に大政所を焼き殺そうとした恐ろしさは今も忘れられない』と語ったところ、太閤はその忠義に感心したものの、これ以来、太閤の胸に深く残った。」
ネットを検索すると、大政所の住処のまわりに薪を積み上げたのは本多重次とする記事が多くみられますが、『寛政重修諸家譜』には薪を積み上げたのは本多重次と井伊直政と書かれています。しかも、このことが本多重次の項に書かれているので、本多重次だけでなく井伊直政も確かに関わっていたと考えられます。
また、「どうする家康」では、井伊直政が、大政所を大坂まで送っていく場面もありましたが、それについても『寛政重修諸家譜』の井伊直政の項に「(天正14年)10月ご上洛の時、直政は本多重次とともに、岡崎城にとどまって、大政所を警衛した。11月に大政所が帰洛することになり、大政所に付き添って大坂に向かい、太閤に謁見し懇(ねんご)ろに饗応された」と書いてあります。