上洛した家康、秀吉の陣羽織を所望する(「どうする家康」143)
「どうする家康」第35回では、ついに家康が上洛しました。家康が上洛したのは天正14年10月26日のことです。家康は、秀吉の弟羽柴秀長の屋敷に宿泊しましたが、その日のうちに秀吉が突然家康を訪ねてきたといいます。
「どうする家康」では、その際に、家康が秀吉の陣羽織を拝領したいと申し出たのをきっかけとして、翌日、公式の謁見の場で、家康が秀吉から陣羽織を拝領されていました。
この陣羽織拝領の話は、よく知られている話です。この話は『徳川実紀』付録巻5に書かれています。しかし、『徳川実紀』に書かれているストーリーは「どうする家康」でのストーリーとは少し違いますので、『徳川実紀』付録巻5に書かれている内容を私なりに現代語訳して紹介します。
「(家康が)御上洛した折、大和大納言秀長が朝の御膳を提供するためお迎えしたとき、秀吉も突然その場に臨席した。(秀吉は)白地に紅梅をつけ、襟と袖には赤地に唐草の刺繍をした陣羽織を着ていた。秀吉が席をはずした後、秀長と浅野弾正長政が、秘かに申し上げたのは、あの陣羽織を御所望しなさいということであった。家康は、『私は今までそのようなことを人に言ったことはない』と断ると、2人は、『これは殿下が武具の上に身に着けられる陣羽織であるので、 この度、和議が成立したからには強く御所望し、この後は殿下には御鎧は着けさせませぬと言えば、関白もどれほどかお喜びになることか』と言った。家康も頷き、秀長の饗応が終わり、秀吉とともに大坂城に登られた。この時、諸大名が皆居並ぶなかで謁見した。秀吉が言うには、『毛利、宇喜多をはじめみんな聞いてくれ。私は母(大政所)に早く会いたいと思うので、徳川殿を明日本国に帰す』と。また家康に向かって、『今日は非常に寒い。小袖を重ね着されよ。城中で一服差し上げ、餞別を贈ろう。御肩衣を脱ぎない』と言うと、秀長と長政は家康のお側に寄って(肩衣を)脱がせた。家康はその時、『殿下がお召しになられている御羽織を私にいただきたい』と言うと、秀吉は『これは私の陣羽織である。差し上げることはできない』と言った。家康は、『御陣羽織であるとお聞きしたからには尚更拝受をお願いします。この家康がこのようにしたからには、二度と殿下に御武具を着させません』と言ったので、秀吉は大いに喜び、『そうであるなら差し上げよう』と言って、自ら脱いで着せて、諸大名に向かって、『只今家康が秀吉に武具を着けさせぬと言ってくれた一言を各々聞いたか。秀吉はよい妹婿を迎えた果報者だ』と言った。』
「徳川実紀」を読むと、陣羽織を拝領したいという申出は家康の発案ではなく、羽柴秀長と浅野長政が、家康に入れ知恵したのがきっかけとなっています。
『徳川実紀』が書いているように陣羽織を拝領したというエピソードが羽柴秀長と浅野長政の発案であるならば、私には、秀吉が喜ぶために羽柴秀長と浅野長政が考え出した演出のようだと感じられました。