本多忠勝の娘稲(小松姫)、真田信之に嫁ぐ(「どうする家康」146)
「どうする家康」では、お愛の方の話が中心でしたが、家康に関係する出来事を確認してみると、時間は天正15年(1587)から一気に天正17年(1589)までの出来事が描かれていましたので、まず天正14年の家康の上洛から小田原征伐までの時間の流れをみておきます。
☆天正14年から天正18年の家康に関連する主な出来事は次のようになります。
天正14年10月27日 上洛し秀吉と対面
天正15年3月18日 駿府に真田昌幸と小笠原貞慶が参府
ここまでは、「どうする家康」第35回で描かれていました。その後、「どうする家康」第36回で描かれていた出来事の発生した年月を書いてみると次のようになります。
北条氏政・氏直父子に秀吉への臣従を勧める。⇒ 天正16年(1588)5月
旭姫が母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛する。⇒ 天正16年6月22日(藤井譲治著『人物叢書徳川家康』p120より)
お愛の方が駿府で亡くなる。⇒ 天正17年(1589)5月19日
本多忠勝の稲(小松姫)、真田信之に輿入れ ⇒ 天正17年
こうしてみると、天正15年から天正17年までのことがわずか1回で描かれていたことがわかります。
天正15年の時、家康は46歳ですので、まだ亡くなるまで約30年間ありますので、大河ドラマの放映はあと3ヶ月余りとなっていますので、急いでいくのもわかります。ちなみ、第37回「さらば三河家臣団」の予告をみると、小田原征伐から家康の関東移封が描かれるようです。これから一気に物語が展開していくのでしょうか。
さて、今日は、真田信之と本多忠勝の娘稲(小松姫)について書いていきます。なお、「どうする家康」では、「稲(いな)」と呼んでいますが、稲のお墓のある沼田市正覚寺や鴻巣市勝願寺での案内は小松姫とされていますので、以下では小松姫と表記します。
真田信之(当初の名前は信幸)は、真田昌幸の嫡男として永禄9年(1566)に生れました。『寛政重修諸家譜』を見ると、「永禄9年生れる。天正17年2月13日駿府に至りて東照宮にまみえ奉り、文禄2年9月朔日太閤の命により従五位下伊豆守に叙任し、慶長5年上杉景勝御征代のとき父昌幸と同じく従い奉る。この時父は石田三成に与すといえども、信之は父に従わず御麾下に属す。(以降の経歴が詳しく書かれていますが、長くなりますので略します)」 これを見ると真田信之は天正17年2月に駿府に出仕しています。おそらく真田家からの人質として送られてものだと思います。そこで、本多忠勝の娘の小松姫(稲)と結婚するようになったものだと思われます。「どうする家康」では、真田昌幸が家康に要求したように描かれていましたが、家康が信之を見込んで小松姫(稲)を輿入れさせたと書いてあるものもあります。なお、真田信之は第一次上田合戦で一隊の指揮をとり徳川軍を翻弄するほどの活躍をしています。しかし、『寛政重修諸家譜』では全く触れていません。さすが、幕府に提出する経歴書には、徳川軍を撃破したという手柄話は書けなかったようです。一方、小松姫は『寛政重修諸家譜』の本多忠勝の項では、「女子(中略)真田伊豆守信幸の室」とだけ書かれています。
そこで、『図説真田一族』(丸島和洋著)に書かれている真田信之と稲姫(小松姫)に関することを追記します。
それによれば、信之は人質として甲府・新府に出仕していて、元服した際に名乗った「信幸」の「信」は武田家の通字で勝頼の嫡男である信勝と同時の元服であったといいます。「天正壬午の乱」では、大叔父の沼田城代の矢沢頼綱の指導を受け岩櫃城代となり、第一次上田合戦に参戦しています。
本多忠勝の娘小松姫を正室に迎えましたが、信之には、それ以前に叔父真田信綱の娘で従妹でもある清音院殿(せいいんいんでん)と結婚していました。清音院殿は、真田家の系図では「家女(いえおんな)」と記されていることが多いので、「(小松姫との結婚を機に)側室扱いになったとみてよい。奥の取り仕切り権が小松殿に移ったのは間違いないだろう」と丸島氏は書いています。
また、丸島氏によれば、小松姫は家康の養女として嫁いだとされることが多いのですが、小松姫の孫の幸道(*小松姫の子供信政の子供で松代藩3代藩主)は幕府に「秀忠養女」と幕府に伝えているようで、家康の養女とするものと秀忠の養女とするものがあり混乱があるそうです。
従来の正室清音院殿は、長男の信吉を産んだと言われていて、稲姫(小松姫)が産んだ信政は次男でしたが、江戸時代に上田藩から移封した松代藩の2代藩主(初代藩主は信之)となっています。
関ケ原の戦いの際には、下野国犬伏で真田昌幸・信之・信繁(幸村)の父子三人がどちらにつくか協議し、結果として、真田昌幸と信繁(幸村)が西軍に参加し、信之は東軍に参加することになりました。そして、信之は小山に向かい、父昌幸と弟信繁は小山に向かわず上田に戻ることにしました。これが有名な「犬伏の別れ」です。
犬伏で別れた昌幸と信繁は上田城に戻る途中で沼田城に寄っていくことして、沼田までやってきて入城を要請しました。これに対して沼田城を守っていた小松姫は、敵方に参加することとなった舅昌幸の入城を拒みました。昌幸は、孫の顔を見たいだけだといって懇願しましたが、小松姫は、頑として入城を許さなかったといいます。この事を聞いた昌幸および人々は「さすが本多忠勝の娘」と話したそうです。なお、小松姫は、昌幸の入城を拒みましたが、その後、城下のお寺(正覚寺か?)で昌幸に孫の顔を見せたともいわれているようです。

