秀吉が指示した沼田領の分割がのちの紛争の火種となる(「どうする家康」149)
天正16年8月に北条氏政は弟氏規を上洛させました。このことは、北条氏を従属させたことを意味しました。しかし、この時、ここで氏規は沼田領の裁定を申し立てたと考えられています。この申し立ての背景について『長野県史』通史編第3巻p356には「(北条氏は)執拗に沼田攻めを強行していた。しかし、昌幸配下の沼田城代矢沢綱頼(つなより)をはじめとする強固な結東と、上杉景勝の支援でどうしても攻略することができなかった。そこで、天正16年(1588)、秀吉からの上洛催促にたいして氏政は、真田氏が沼田の地を譲渡しさえすれば、かならす上洛するという条件をだしてきた。すなわち、北条氏政は、武力をもってはどうしても攻略できなかった沼田を、上洛との引きかえて手に人れようとしたわけである。」と書かれています。
北条氏の申し立てを受けて、秀吉は詳細な事情を聞くため北条氏の家臣を派遣するよう要請し、天正17年2月、北条氏は重臣板部岡(いたべおか)江雪斎を上洛させました。板部岡(いたべおか)江雪斎は、天正壬午の乱での徳川氏と北条氏との和睦の際に、上野国は北条氏領となることが合意されていたものの真田昌幸が沼田領を引き渡さなかった経緯を説明したと考えられています。
その結果、秀吉により、つぎのような内容の裁定が下されました。
①上野国内の真田氏の沼田領の3分2を沼田城とともに北条氏のもととする。②残る3分1は領内の城も含めて真田氏に安堵する。➂北条氏に割譲された3分2に相当する替地は、家康から真田氏に与える。
*2023.10.1追記 秀吉の裁定の原文が『秀吉の天下統一戦争』(小和田哲男著)に記載されていましたので、それを転載させていただきます。「上野のうち、真田持来(もちきた)り候知行三分の二、沼田の城に相付け、北条へ下さるべく候。三分の一は真田に仰せ付けらるべく候条、その中に之有る城をば、真田相抱(あいかか)うべきの由仰せ定められ、右、北条に下され候。三分の二の替地は、家康より真田に相渡すべし。」
秀吉の裁定は、沼田領の3分2を北条氏、3分1を真田氏とするものですが、この裁定方法について黒田基樹氏は『敗者の日本史 小田原合戦と北条氏』の中で「係争地について「、3分1・3分2に分配する方法は、中世社会において伝統的に行われてきた紛争解決方法の一つである。秀吉もまたこれを取り入れたことになる。もっとも折半ではなく、北条方が3分2、真田方が3分1に分配されているのは、両領を基本的には北条領とする裁定が基本となっているためであろう」と書いています。
この裁定に際して、秀吉からは、北条氏政か氏直のいずれかが必ず上洛・出仕するという一札(いっさつ)を提出すれば上使を派遣して沼田城及び沼田領を引き渡しをする旨が板部岡江雪際に伝えられました。
北条氏はこの三分二裁定に不服であったのでしょう。しばらくの間、裁定を受け入れるとの回答はなされませんでしたが、天正17年6月に氏直はこれを受け入れ、12月には氏政が上洛する旨を連絡しました。
こうして豊臣政権による沼田領裁定は執行される運びとなり、7月に上使として富田一白(知信)・津田盛月(もりつき)が沼田へ派遣されました。この際に、家康も榊原康政を派遣して沼田城引き渡しに当たらせました。そして、7月21日に沼田城は北条氏に無事引き渡されました。
沼田城を受け取った北条氏では、沼田領の統治は北条氏政の弟保北条氏邦の担当とされ、北条氏邦は、沼田城に重臣の猪俣邦憲を入れました。また家康は、沼田領を失った真田昌幸に対して替地として、伊那郡箕輪領(長野県箕輪町)を与えました。
こうして、一旦は、結着をみた沼田領問題ですが、天正17年11月、真田氏の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城が、北条氏により攻略されるという事件がおきてしまいました。これにより、秀吉の小田原征伐が開始されることとなりますが、このことは、今週の「どうする家康」第37回で描かれるものと思います。

