豊臣秀吉、小田原征伐を決意する。(「どうする家康」150)
「どうする家康」第37回では小田原合戦および徳川家の関東移封を中心に物語が展開しました。そこで、今日は、小田原合戦がどうして始まったかについて書いていきます。
豊臣秀吉の裁定が出され、一度は結着した沼田領問題ですが、沼田領の3分2だけが割譲された北条方には不満が残ったものと思われます。裁定が出されてあまり日がたたない天正17年(1589)11月、北条氏邦から沼田城を預かっていた猪俣邦憲が、真田氏が守っていた名胡桃(なぐるみ)城を奪取してしまいました。これが、小田原合戦のきっかけとなりました。
この事件の情報は11月3日、家康に通報され、その後、秀吉にも通報され、この事件に怒った秀吉は、11月24日に「宣戦布告状」と言われている北条氏直宛の五か条の条々が発表されています。「宣戦布告状」の現代語訳は『小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著)p139に書いてありますが、それを要約すると1条・2条・3条でこれまでの沼田領問題の経緯を改めて書いていて、4条目で名胡桃城事件に触れて、「名胡桃城を取って、表裏したからには、北条氏からの使者に会うことはできない。」として、5条目で、来年には進発し氏直の首をはねるつもりだと述べています。
これを12月7日に受け取った北条氏直は、すぐに返書を秀吉の側近宛に送っています。その内容は、氏政がすぐに上洛できない事情の弁明と名胡桃城事件の弁明でした。『小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著)によれば、氏政が上洛できない弁明の中で、家康が上洛する際には旭姫と婚姻を結んだうえに大政所が下向しているし、名胡桃城事件で秀吉が怒っているので上洛すれば二度と帰国できないのではないかと思っているので、疑念を取り除いてくれればすぐに上洛すると言っているようです。
この氏直の弁明について小和田哲男氏は『秀吉の天下統一』の中で「上洛を命ずるなら、家康と同等ないし、それ以上の礼をもって臨んでほしいという氏直の主張はそれなりに理解できるわけであるが、秀吉にしてみれば、家康を臣従させるときとは事情がちがう。そのあたりの内外情勢の変化、特に、九州攻め後の秀吉権力の強大化を正当に評価できなかった北条氏の限界は読みとれよう。」とコメントしています。
北条氏政・氏直父子はこうした弁明をする一方で、北条氏は、12月8日から領内の国衆に軍事動員をかけて、小田原城や支城の防御強化に取り組んでいます。北条氏が小田原城の防御強化に取り組んだのは、過去に上杉謙信や武田信玄の猛攻を小田原城が凌いだという成功体験があったからのようです。小和田哲男氏は『秀吉の天下統一』の中で次のように書いています。「北条氏の場合、小田原城に依存する意識には根強いものがあった。特に氏政はその思いが強かった。というのは、若いころ小田原城に籠城し、 はじめ上杉謙信の軍勢を撃退し、 さらにそのあと、武田信玄の軍勢も撃退するという経験をもっていたからである。戦国を代表する上杉謙信・武田信玄の攻撃にもびくともしない小田原城の堅城ぶりが実証された形で、氏政には相当な自信になったものと思われる。仮に秀吉との戦いになっても、小田原城に籠城して戦えば、上杉謙信や武田信玄のときと同じよう、秀吉軍もすごすごと兵を引いていくという思いがあったらしい。
北条氏は、滅亡の段階まで兵農分離は進んでおらず、兵農未分離であった。氏政がかつて籠城戦法によって撃退した上杉謙信の軍勢も武田信玄の軍勢も兵農未分離で、敵地での長期の滞陣は不可能だったため、城攻め半ばで兵を引いたわけであるが、秀吉はちがっていた。兵農分離が進み、何カ月にわたっても滞陣が可能だったのである。しかも、上杉軍、武田軍のときは、せいぜい二万の軍勢であった。ところが、秀吉軍は21万とも22万ともいわれる大軍で、しかも、農繁期になったからといって兵をもどす必要がない軍勢であった。氏政には、そうした変化がみえていなかったものと思われる。」
こうした北条氏の対応に秀吉が納得するはずがなく、小田原征伐が始まり、家康は先鋒として出陣することになります。

