小田原合戦に敗北した北条氏が滅亡する(「どうする家康」151)
北条氏政が上洛しない上に名胡桃(なぐるみ)城事件の勃発により秀吉による北条氏成敗が明らかになり、家康は秀吉から要請され上洛し北条攻めの軍議に参加しています。そして、家康は北条攻めの先鋒を命じられました。
一方、北条氏政・氏直は秀吉との対決を目前に控え、12月後半から、氏照らの御一家衆、松田憲秀らの宿老をはじめ、多くの領国内の家臣・他国衆を小田原城に入城させ、また、総距離9Kmにも及ぶ大規模な堀と土塁を築き、防御態勢を整えました。また、秀吉勢を迎え撃つ伊豆では、駿河方面に対する最前線の山中城 (静岡県三島市) に重臣松田康長と玉縄北条氏勝が在城し 韮山城 (静岡県伊豆の国市韮山) に北条氏規が在城しました。前田利家を総大将とする東山道勢を迎えうつ上野方面では宿老大道寺政繁が上野松井田城 (松井田町) に在城し、氏政の弟氏邦が本拠の武蔵鉢形城 (埼玉県大里郡寄居町) に在城しました。
秀吉から先鋒を命じられた家康は、天正18年 (1590)2月10日、3万の軍勢で駿府を出陣しました。そして、2月25日、織田信雄が沼津に着陣しました。3月1日に秀吉が3万余りの軍勢を率いて京都を京都を出陣しました。そして3月2日に家康は黄瀬川に陣をすすめ、東海道軍の総大将羽柴秀次が3月2日に沼津に着陣しました。3月3日に、伊豆三島および伊豆・駿河国境の黄瀬川で、 徳川家康・織田信雄・羽柴秀次らの軍勢と北条勢との間で戦闘が行われ、小田原合戦が開始されました。
北条氏側は、駿河・伊豆方面の拠点として山中城・足柄城・韮山城を重視していましたが、3月27日に秀吉が駿河三枚橋城 (静岡県沼津市) に着陣すると、 秀吉勢による本格的な進攻が開始され、29日に山中城は、羽柴秀次・家康などの軍勢の攻撃により即日に落城し、4月2日には家康軍の別動隊が足柄城 (神奈川県南足柄市) を攻略しました。4日に家康は小田原城近くまで進み、5日に秀吉は北条氏の菩提寺早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本)に本陣を構えました。そして、4月中旬頃には小田原城包囲陣が完成し、家康は小田原城の東側に陣を構えました。
一方、前田利家・上杉景勝・真田昌幸を中心とする東山道軍は、3月28日から松井田城を攻撃し、4月20日に開城させ5月初めまでには上野・下野から武蔵北部を制圧しました。また浅野長吉(長政)や家康重臣の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢からなる別働隊が、小田原から北上して、江戸城(千代田区)や岩槻城を攻略し上総・下総から武蔵東部にかけて制圧しました。そして前田利家らの軍勢と浅野長吉(長政)らの軍勢は合流し北条氏の北武蔵の拠点鉢形城6月14日に攻略し、続いて6月23日から八王子城を攻撃して即日に攻略しました。さらに6月24日には韮山城、25日までには津久井城も開城して、北条方の重要拠点は軒並み攻略されました。こうして6月下旬までに、成田氏長の本拠忍城(行田市)を除いたすべての北条方諸城が攻略されました。そして小田原城と忍城だけが残されることになりました。
6月下句には石垣山城(小田原市)も完成して秀吉は石垣山城に本陣を移しました。
小田原城は4月中旬から籠城して抗戦していた北条氏直ですが、6月初旬から秀吉との和睦を模索しはじめました。そうした中、6月24日には、開城を勧告するための使者として秀吉の家臣黒田孝高(よしたか)と織田信雄の重臣滝川雄利(かつとし)が城内の氏直に派遣されました。(*余談ですが、この時、黒田孝高に返礼に『吾妻鏡』が贈られました。この『吾妻鏡』は現在国立公文書館に所蔵されています。)
そして、7月1日氏直は秀吉へ降伏を決意して、5日に氏直は弟氏房とともに、小田原城を出て滝川雄利の陣所に投降ましした。そこで氏直は、秀吉に対して自身の切腹と引き換えに城兵の助命を嘆願しました。秀吉はこの申し出に対して氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁の4人に合戦の責任があるとして、彼らを切腹させるように命じました。そして氏直については助命することとしました。氏直が助命されたのは家康の娘婿であった(氏直の妻は家康の次女督姫)であったからだと言われています。
翌6日から小田原城の接収が開始され榊原康政ら家康の軍勢がまず入城し、10日には家康自身が入城しました。10日に、それまで滝川雄利の陣所に居た氏直が家康の陣所に移っています。同じ日に、氏政も小田原城を出て家康の陣所に移りました。そして翌11日に氏政・氏照は切腹を遂げました。氏政は享年53歳、 二人の首は京都に送られ聚楽第の橋に晒されたといいます。下写真は小田原市にある北条氏政・氏照のお墓です。右が氏政、左が氏照の墓です。氏政の法名は慈雲院殿松巌傑公大居士です。

助命された氏直は、12日に高野山に追放されることが決まり、7月21日に小田原を出発しました。この氏直の高野山行きには、氏規らの御一家衆、重臣、側近家臣など合わせて300人ほどが随行したといいますが、氏直の妻督姫(家康の次女)は、高野山行きには従わず、父家康に庇護され、そのまま小田原にとどまっています。氏直一行は、8月10日に奈良に到着し、同12日に高野山に入りました。
こうして、北条早雲以来五代100年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名北条氏は滅亡しました。

