家康が江戸に入ったのは天正18年8月1日か?(「どうする家康」152)
北条氏が滅亡し、旧北条領国に徳川家康が入ることになりますが、家康が、江戸に入府したのは天正18年(1590)8月1日と言われています。それゆえ、江戸時代は、幕府は8月1日を「八朔(はっさく)御祝義」として公式な祝日として、大名・旗本が登城し将軍に祝辞を述べる祝賀行事が行われていました。なお、八朔の「朔」は「朔日(さくじつ)」の略で「ついたち」を意味しますので「八朔」とは8月1日を言います。
8月1日に家康が江戸城に入ったことは、幕府の公式歴史書である『徳川実紀』では次のように書かれています。
「関白は諸将の論功行賞を行い、駿河大納言はこの度の関東平定に際しての大きな働きは右に出るものがないということで、北条氏の領していた関八州の国をことごとく家康の領国とした。(中略)また、旧領五か国は、秀吉が配下の諸将に配分したいので、早く引き渡して欲しいといった。そこで、(家康は)五か国の役人たち・代官・下級官吏に至るまで、急いで呼び寄せ、関東八州の知行地割を命じ、準備が整ったので、7月29日、家康は、小田原を出発し、8月1日、江戸城に移り、万歳千秋・天長地久の基礎を築いた。」
しかし、現在の研究では、家康が江戸に入ったのは、8月1日より早かったとする人が多いように思います。そこで、いろいろな研究者が書いた本に家康が江戸に入った時期についてどのように書かれているか見てみます。
まず、『人物叢書 徳川家康』(藤井譲治著)p140には「7月20日には、 18日に江戸へ来た松平家忠に対し、明日21日に三河へ帰り、国替えにともなって女子を関東に引っ越すよう命じた。家康は秀吉の奥羽侵攻には従わず、江戸にいて新領国の経営にあたった。(中略)そして、8月1日、家康は江戸城に正式に入る。のち江戸幕府が開かれると、この日は幕府の祝日となる。」と書いてあり、藤井譲治氏は、8月1日に「正式に」江戸城に入ったと書いています。
『定本徳川家康』(本多隆成著)p168には「(関東移封の)7月13日の正式発表の後、家康は駿府城に帰ることなく、20日ころまでには江戸に入った」と書かれています。本多隆成氏は簡単に書いていますが、7月中に江戸に入ったとしています。
『シリーズ織豊大名の研究10徳川家康』に収録されている『徳川家康江戸入部の歴史的背景』(竹内英文著)には「7月5日、北条氏直は投降し、翌6日に小田原城は開城した。これにより、秀吉はしばらく小田原に在陣して戦後処理を行っていたが、家康は小田原城の受け取りを済ませた後、一足早く7月16日に小田原を出発し、東海道を経て18日には江戸城に入城している。一日遅れること17日に秀吉も小田原を出発、鎌倉を見物して19日に江戸に到着し、先に入城していた家康の出迎えを受けたという。」と7月18日に江戸城に入城したと明言しています。
最後に、結論的な見解が『徳川家康』(柴裕之著)p193に詳しく書かれていますので紹介します。
「天正18年(1590)7月、相模小田原城が開城した後、正式に関東移封を命じられた家康は武蔵江戸城に入り、関東における新たな領国の統治を始める。なお、家康の江戸入部は、一般に8月1日といわれる。だが、7月18日には江戸に入っていたことが確認できる (『家忠日記』)。ただ、その後、7月28日から8月4日の間に行われた下野字都宮城での関東仕置によって、関東の諸大名ともども、領国の範囲が確定されている。そして、常陸佐竹氏の領国確定は8月1日付となっている。このことから、8月1日とは、豊臣政権の関東仕置により、徳川関東領国の範囲が政治的に確定したと位置づけられた日付であったようだ。それが、新穂を祝う八朔の祝いと結びつき、徳川将軍家の創成を前提とした『松平・徳川中心史観』のもと、家康が関東入国した日として、江戸幕府による参賀儀礼や江戸庶民の祝賀行事が催されるようになり、今日の認識に至ったと思われる。」
柴裕之氏によれば、実際に家康が江戸に入ったのは7月中旬であるが、それまで8月1日に行われていた「八朔」という行事と関連づけて神君家康公が8月1日に江戸に入府したとして幕府の祝賀行事と定めたようです。
柴裕之氏の見解にも引用されている深溝松平氏の当主であった松平家忠が書いた『家忠日記』は国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことできます。
その中で、家康が7月中旬には江戸にいたことを明らかにしているのは7月20日の記述だと思います。読み下し文で書くと「『明日、三州へ帰り候らえ』の由(よし)、御意(ぎょい)候(そうろう)。御国替り女子引越しのことなり」と書いてあります。『御意』という語句は家康の意思ということですから、これを読むと7月18日に松平家忠は家康から三河に一旦帰えるように命じられています。ですから18日には確かに家康が江戸に滞在していたことがわかります。
なお、その前後の『家忠日記』の記述を現代語訳すると次のようになります。
7月16日、江戸表に立つ。関白様は会津筋にお出かけになった。
7月18日、江戸に着いた。
7月20日、明日、三河に帰るようにと(家康から)命じられた。国替りとなるため女子供の引越しの準備のためである。関白様は奥羽へ向かわれた。
7月20日、小田原の陣場迄やってきた。(小田原)城を見物した。氏直が高野山へ昨日出発したそうである。

