家康、秀吉の「唐入り」のため肥前名護屋に詰める(「どうする家康」154)
「どうする家康」第38回は「唐入り」のタイトルの通り、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)での家康や秀吉の動きが描かれていました。描かれていたのは天正19年(1591)8月5日の秀吉の長男鶴松の死から文禄元年(1593)12月の淀殿の懐妊までのお話です。約2年の出来事が描かれています。やはりストーリーの展開がスピードアップしているように感じます。
天正19年8月、秀吉は「唐入り」(明国への侵攻)を決行することを全国に布告し、まず肥前国に前線拠点となる名護屋城の築城を指示します。そして、秀吉は、鶴松が死去したことがきっかけとなって、天正19年12月28日、関白を辞任して甥の秀次がこれを継ぎました。そして、秀吉は「唐入り(からいり)」に専念することになりました。なお、関白の位を譲った人は太閤と呼ばれましたので、秀吉も「太閤殿下」と呼ばれました。
「唐入り」の日本側の前線拠点を肥前名護屋(佐賀県唐津市)として、秀吉はここに本格的な城を築き(名護屋城)、その城下に諸将は屋敷を構えました。家康も2月2 日に1万5000の軍勢を率いて江戸を発って上洛し、3月17日に京都を発ち名護屋に向かいました。
天正20年(1592) 4月に第一陣の宗義智・小西行長が釜山に上陸し朝鮮に協力を要請しましたが朝鮮側が拒否したため直ちに攻撃を開始し、さらに、加藤清正・鍋島直茂らの第2陣、黒田長政ら第3陣と続々朝鮮に上陸し、第9陣まで15万余りという大軍が朝鮮に向かいました。日本軍は5月3日には早くも首都の漢城(京城)を陥落させました。漢城陥落を聞いて秀吉は、「三国国割」構想を発表しました。その内容は、後陽成天皇を明国の首都北京に移し、秀次をその関白として政務を行い、日本の帝位は皇子良仁(かたひと)親王か皇弟智仁(としひと)親王がつき、秀次の弟秀保か宇喜多秀家が関白となり、朝鮮国には秀次の弟秀勝を置くとなっています。そして秀吉自身は、寧波(ニンポー)に居所を定めるとしています。
そして、秀吉は、秀吉自身が渡海しようと計画しました。これに対して、家康と前田利家は、その危険なことを説いて必死に諫止したため、とりあえず秀吉の渡海は翌文禄2年(1593)3月まで延期されることになりました。その代わりに石田三成、大谷吉継、増田長盛らが朝鮮に渡ることとなりました。
当初は快進撃を続けた日本軍でしたが、 朝鮮の人々が決起し、明からも援軍が送られてきて、さらに李舜臣(イスンシン)率いる朝鮮水軍が日本水軍を撃破し日本軍の補給が厳しくなり、次第に苦境に陥ることとなりました。そうした中、秀吉の母大政所の危篤の報が入り、秀吉は天正20年(1591)7月22日に急遽大坂に向けて名護屋を出発しましたが、大政所は、秀吉が名護屋を発った日に死去したため、秀吉は死に目にあうことはできませんでした。秀吉はすぐに名護屋に戻ろうとしましたが、後陽成天皇からの要請もあり、しばらく京都に滞在し、秀吉が名護屋に戻ったのは11月1日のことでした。家康は、秀吉が大坂に戻っている間、前田利家とともに名護屋で留守を守っていました。
その後の朝鮮における戦況は芳しくなく、翌文禄2年(1592)4月には明との間で講和交渉が始まりましたが、交渉は難航しました。そうした中、淀殿の懐妊が明らかになりました。「どうする家康」では大坂城から「淀殿が懐妊した」と連絡がきたことになっていますが、『淀殿』(福田千鶴著)には、淀殿は、文禄元年(1591)12月頃、名護屋で懐妊に気が付いたと書いてあります。そして、日にちは不明ながら年が明けてから大坂城に戻ったと推測されるとしています。
そして、文禄2年8月3日に大坂城で淀殿が男子拾(ひろい)(のちの秀頼)が産まれ、この連絡を名護屋で受けた秀吉は8月25日には大坂城へ帰城しています。

