浅野長政、渡海しようとする秀吉を諌める(「どうする家康」155)
「どうする家康」第38回で、朝鮮に渡海しようとする秀吉を突然浅野長政が諫言する場面がありました。
渡海しようとした秀吉を浅野長政が諫めたという話は『徳川実紀』に載っています。また、江戸時代中期の儒学者湯浅常山がまとめた武将たちの逸話集である『常山紀談』にも載っています。
『徳川実紀』に載っている内容と『常山紀談』に載っている内容は少し違いがあります。『徳川実紀』では、関白豊臣秀次の面前で起きた事件としていて怒ったのも秀次としていて、「どうする家康」の話とは少し違っています。一方、『常山紀談』では浅野長政と秀吉とのやりとりとなっています。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる『常山紀談』の内容を現代語訳して紹介します。なお、この話は『常山紀談』の巻之十の「浅野長政諫言の事」として記録されています。
「太閤が名護屋に在陣して朝鮮に攻め入った軍勢が順調でないのを怒って、諸大名を集め、『現在の情勢では秀吉自らが渡海したほうが良い。30万の軍勢を三手に分けて、(前田)利家、(蒲生)氏郷を先陣として三方向から(朝鮮)を打破り、真っ直ぐに明国に攻め入るべきだ。日本のことは徳川殿がいるので不安はない。どう思う』と下問があった。家康はこれを聞いて、(前田)利家・(蒲生)氏郷に向かって、『人材が大勢いる中から選ばれて一方の大将となること名誉なことと思います。そもそも私たちは弓矢を取って年を取りました。このような時に、他の人の跡に残っているのは悔しいことです。是非とも一方の先陣を御命じいただきたい』と言うと、浅野弾正少弼長政が進み出て、『しばらくお待ちください。殿下(秀吉)の最近の御振舞は昔と変わってしまいました。古狐に取りつかれたのではないかと思います。』と言い終わらないうちに、太閤(秀吉)大いに怒って、『やぁ秀吉の心に狐が取りついたという理由をしっかりと言え。もし、それがはっきりと言えないのであれば首を打ち落としてやる』と睨(にら)んだが、長政はちっとも騒がず。『長政のようなものが何十人首を刎ねられてもなんでもありません。そもそも理由なき戦さをおこして朝鮮八道はもとより日本六十余州に父が討たれ兄弟を亡くし、夫に離れ子供に先立たれ嘆き悲しむ者が満ち溢れています。それに兵糧の運送がさらに加わり、六十余州はことごとく荒れ野となっています。今度渡海されるのであれば五畿七道に盗賊があふれること必然です。徳川殿はどのように考えるといえども少しでもこれを防ぐべきです。これを考えるとなんで先陣というのでしょうか。太閤殿下が昔の考えであるならばこれほどのことなどを思いつくことはないでよう。これは尋常ではありません。きっと古狐がとりついたのでしょう。卑賎な人のことわざに“人捕る亀は人に捕られる(人に害を加えれば、自分もまた人に害せられる”といいますが、まさにこのことです。)』と誰をも憚らず申し立てると、太閤は『いずれにしても自分の主君に対してこのように悪口をいうのはかしからん。』ととびかかろうとしたのを人々が押しとどめた。長政は、気にした様子もみせず、人々に会釈して静かに席を立ち自分の陣所にかえった。ちょうどその頃、肥後で一揆が計画されているとの情報が届いたので、太閤は非常に驚いて、長政を召し出して「貴様の嫡子浅野幸長をむかわせて制圧せよ」と命じ、本多忠勝を添えて肥後国に向かわせた。」
これによると秀吉が自ら渡海するので先陣として前田利家と蒲生氏郷を命じたところ家康がぜひ先陣を賜りたいと申し出たところ、浅野長政が秀吉はおそらく狐がとりついたのだろうが昔と変わってしまって無謀は戦を始めていると厳しく申し立てたということです。この逸話では家康もすっかり形無しです。
結果として、こうしたこともあって、秀吉の朝鮮への渡海は取りやめとなりました。
浅野長政の妻と秀吉の妻寧々は姉妹ですので、浅野長政は秀吉の義理の弟です。こうした近い関係にあったため、秀吉にも耳の痛いことを堂々と言えたのだと思います。

