阿茶局、家康に深く信頼され表舞台でも活躍(「どうする家康」156)
前回の「どうする家康」から側室阿茶局が登場して、第38回でも淀殿を相手にして大活躍していました。側室というと奥向で仕えるている女性というのが普通ですが、阿茶局はそんな枠に収まらずに政治の表舞台でも活躍した異色な側室です。この阿茶局について『幕府祚胤伝』を参考に書いてみます。
阿茶局は、武田家家臣の飯田筑後守直政の娘として、弘治元年(1555)2月に生れました。そして、今川家家臣の神尾孫兵衛忠重の妻となりましたが、天正5年(1578)、神尾忠重が死んだため寡婦となりました。天正7年(1579) 5月家康のお召しに預り、以降、阿茶局と名乗りました。阿茶局は、弘治元年(1555)2月生まれですので、当時25才となります。それ以降は、戦場にもお供したと書いてあります。そのため、天正12年の小牧長久手の戦いの際にもお供をしていて、ここで懐妊しました。しかし、陣中は妊婦にとっては過酷な場所ですので、陣中で流産してしまったようです。
『幕府祚胤伝』には書かれていませんが、天正17年(1589)5月秀忠・忠吉の生母西郷局が死去してからは、二人の義母となってその生育につとめたといいます。(高柳金芳著『徳川妻妾記』より)
天正18年に家康が江戸城に入ってからは、阿茶局は『幕府胙胤伝』に「隠密の御用向。奥より執政(家老・年寄たちのこと)へ伝達を蒙(こうむる)」と書いてあり、政治面でも活躍しました。
その後、大坂の冬の陣の和睦交渉の際には徳川方を代表して大坂方と交渉していますが、このことはいずれ「どうする家康」で描かれることだと思いますので、ここで書くのはやめておきます。
阿茶局のすごいところは、家康が死んだ後も、2代秀忠を支えていたことです。このことは、家康死後のことですので、「どうする家康」で描かれることはないと思いますので、ここで書いておきます。
家康の死んだ際、当時は側室はすべて剃髪することとなっていましたが、阿茶局だけは剃髪せずに従来通り勤めたといいます。しかも、それは家康の遺命だったそうです。
元和6年(1620)には、2代将軍秀忠の五女和子が後水尾天皇の女御として入内しましたが、この時、生母お江(崇源院)の代理として上洛して、恙なく執り行いました。これに対して、阿茶局は従一位を賜っています。また、元和9年に、和子が懐妊した時にも姫君(のちの明正天皇)誕生までお側に仕えています。
このように、家康だけでなく、秀忠も阿茶局を深く信頼して、重要な役割を与えています。そして阿茶局は、それらをしっかりと勤めあげています。
阿茶局は寛永14年(1637)正月22日、享年83才で亡くなりました。

