武断派七将から襲撃された三成、伏見城内の自邸に逃れる(「どうする家康」161)
閏3月3日、病であった前田利家が大坂で亡くなります。前田利家がいることにより、加藤清正・福島正則らの武断派武将と石田三成を筆頭とする吏僚派との対立が抑えられていました。しかし、このキーパーソンである前田利家が亡くなったことにより、両者の対立が一気に噴出しました。前田利家が亡くなった閏3月3日の夜、加藤清正・福島正則らの「七将」が石田三成を襲撃する事件が起こります。これが「七将襲撃事件」と呼ばれる事件です。
まず、この七将が誰かというについては、研究者によって諸説があり、定まっていません。しかし、『関ヶ原合戦 四百年の謎』などで笠谷和比古氏は、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の七人としています。「どうする家康」では、本多忠勝が「加藤、福島、蜂須賀、黒田、藤堂、あと2,3の家中の手勢と思われます。」と言っていましたので、笠谷和比古氏の見解とほぼ同じでした。
七将の不穏な動きを聞いた石田三成は、佐竹義宣の助けをかりて深夜に「女輿」に乗って伏見城内の自分の屋敷に逃れました。
従来、石田三成は、家康の屋敷に逃れたと言われていました。『人物叢書 石田三成』(今井林太郎著)には「伏見に赴いて家康の保護を求めた」と書かれていて、『関ヶ原から大坂の陣へ』(小和田哲男著)にも「家康のふところに飛びこんだ」と書いてあります。
しかし、最近では、石田三成は伏見城内の治部少曲輪(じぶのしょうくるわ)にある自分の屋敷に逃れたと言われるようになりました。笠谷和比古氏が『関ヶ原合戦 四百年の謎』のなかで、このことについて詳しく説明しています。
笠谷和比古氏は、この七将襲撃事件について記した同時代の記録『慶長見聞書』『板坂卜斎覚書』『関原軍記大成』さらに『落穂集』にはいずれも、「石田三成は、伏見の自分の屋敷に入った」と記録していることから、石田三成は、伏見城内の自分の屋敷に入ったのだとしています。現在では、この説が強く支持されるようになっているようです。この件について、『関ヶ原合戦 四百年の謎』のなかで詳しく解明されていますので、ご興味を持たれた方は、ぜひ『関ヶ原合戦 四百年の謎』をお読みください。

一方、笠谷和比古氏は、石田三成が家康の屋敷に飛び込んだという説に大きな影響を与えたのは、陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史・関原役』と徳富蘇峰著『近世日本国民史・関原役』であるとしています。
その『近世日本国民史・関原役』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますが、次のように書いてあります。
「其の(前田利家の)死去の夜、即ち慶長4年閏3月3日の夜、彼等は愈々(いよいよ)最後の手を下さんとした。然るに予(かね)て三成の恩顧を享(う)けたる大阪の士桑島治右衛門、之を三成に密告し、三成の親友佐竹善宜亦(また)之を聞き、三成の邸に赴き、彼を女乗物に乗せ、先(ま)ず之を宇喜多秀家の邸に送り、更に護衛して之を伏見に抵(いた)らしめ、家康に托(たく)した。今や窮鳥は愈々(いよいよ)猟夫の懐に入って来た。」
「どうする家康」では、石田三成は、伏見城内に逃げこんでおり、家康の屋敷に飛び込んで助けを求めていませんでしたので、従来の説でなく、最近の説に基づいて描いたようです。

