七将が石田三成を襲撃した理由(わけ)(「どうする家康」162)
前回の「七将襲撃事件」の続きです。今日は、七将がなぜ石田三成を襲撃したのか、その理由(わけ)について書きます。
「七将襲撃事件」に加わった加藤清正ら七将が、石田三成を襲撃したのは石田三成に対して遺恨を抱いていたからだと考えられています。七将が石田三成に遺恨を抱いていたのは、朝鮮出兵に際して、七将たちが不当に評価され、武将によっては秀吉から処罰を受けたことによります。
慶長の役には、石田三成は朝鮮に渡海しませんでしたが、派遣された軍監(軍目付)の中には、石田三成の女婿(妹の婿とも)の福原長堯(ながたか)、三成の妹婿の熊谷直盛、そして三成と仲のよい垣見一直、これら三人の石田三成と関係の深い人たちが含まれていました。
加藤清正や浅野幸長が飢餓に苦しんだ蔚山城の戦いで、蜂須賀家政と黒田長政は蔚山城の救援部隊として出陣していましたが、明軍に対して積極的に戦わなかったといいます。そして、軍監たちからその報告を聞いた秀吉は「臆病者」と激怒しました。
また、蔚山城の戦いの後、朝鮮在陣の武将たちが今後の戦い方を協議した結果、戦線を縮小しようとという結論に達し、そのことを秀吉に進言することになりました。このことを福原長堯ら軍監が秀吉に報告すると、それを聞いた秀吉は激怒しました。
蜂須賀家政は、この戦線縮小案にも連署していたため、阿波での蟄居を命じられました。また、先に蔚山城の戦いの消極的な姿勢をとった黒田長政は蟄居を命じられることはなかったものの苦しい立場に立たされました。
そして、『関ヶ原合戦四百年の謎』(笠谷和比古著)には、『看羊録(かんようろく)』という書物には、慶長の役から帰った福原長堯が石田三成を通じて、朝鮮在陣の武将たちが進軍しなかったと秀吉に訴えたところ、蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎、加藤清正らがけん責されたと書いてありますす。
これらにより、武断派の武将たちと石田三成ら吏僚派との間に軋轢・対立が深まりました。さらに、武断派の武将たちは、朝鮮から帰国して、石田三成に福原長堯(ながたか)の処罰を訴えたものの、石田三成は拒絶したとも言います。
こうしたことが積み重なって石田三成に遺恨に持った加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の七人が、ついに慶長4年(1599)閏3月3日、石田三成を襲撃しました。
七将に襲撃された後の石田三成の行動は前回書いた通りです。
家康は、七将による三成襲撃の報を聞くと、七将たちの行動を抑え、石田三成を説得して佐和山城に引退させることで解決を図りました。これを受けて石田三成は、閏3月10日佐和山城に向かいました。この際、家康は七将たちからの三成襲撃を防ぐため次男の結城秀康に護衛させました。石田三成は結城秀康に感謝し、正宗の名刀を結城秀康に贈りました。この刀は「石田正宗」と称されて、現在は東京国立博物館に所蔵されていて、重要文化財に指定されています。
七将襲撃事件を解決した家康は、閏3月13日、伏見向島の屋敷から、伏見城西丸に入ることになります。こうした動きを受けて、奈良興福寺の『多聞院日記』には「天下殿になられ候」と書かれており、世間では家康が天下人になったと認識したようです。そういえば、「どうする家康」第40回のタイトルは「天下人家康」でした。

