前田利長、家康暗殺計画の首謀者とされる(「どうする家康」167)
「どうする家康」第41回の冒頭で、家康暗殺計画の発覚が描かれていました。今日は、その話について書いていきます。
家康暗殺計画は、慶長4年(1599)9月に発覚しました。家康は9月9日の重陽の節句に秀頼に挨拶するため9月7日に大坂城に入りました。すると、家康を暗殺しようとした計画が露見し、その共謀者である浅野長政、土方雄久(ひじかたかつひさ)、大野治長が処罰されました。浅野長政は北政所の妹婿であり、大野治長は淀殿の乳兄弟でした。『徳川家康の決断』(本多隆成著)によれば、浅野長政は領国甲斐に蟄居し、大野治長は結城秀康が預り、土方雄久は佐竹義宣に預けられました。さらに首謀者との嫌疑がかけられた前田利長に対しては討伐の噂もあがりました。これに対して、前田利長は、一旦は抗戦しようとしたものの、家康に屈して慶長5年5月に母芳春院(ほうしゅんいん)を人質として江戸に送り結着しました。これが家康暗殺計画の概要です。
この家康暗殺計画について『徳川実紀』には次のように書かれています。(国立国会図書館デジタルコレクションのものを私なりに現代語訳)
「重陽(陰暦9月9日)には長らく秀頼母子と対面していなかったので(家康は)大坂へ向かった。長束(正家)、増田(長盛)は密かに、浅野長政の計画で、土方雄久、大野治長たちを刺客として、(家康)が大坂にいるときに殺害する用意をしていると報告してきた。そこで、本多正信などが、明日大坂城へ入城することは良くないと諫めたが、井伊直政、榊原康政、本多忠勝などが、『それでは怖じ気づいているように見えるので、ただ、その(暗殺計画があるという)心構えをして入城するのが良い』と申し上げたことに従われ、重陽には大坂城に入城し、秀頼母子と会った。井伊(直政)、本多(忠勝)、榊原(康政)等は、無理に寝殿まで進んで、(家康の)お側を離れなかったので、城中では手を出す者もなく、無事に宿舎に帰った。しかし、宿舎でも用心して、伏見から人数を呼び寄せた。(中略)今回、家康を殺害しようと計画した首謀者は、加賀中納言(前田)利長で、浅野長政と共謀し、土方(雄久)、大野(治長)の両人に刺客を命じたことなので、『これらの者たちの罪を問いただして、以後の再発を防ぐようにしなければならない』と奉行らが申し上げたが、(家康は)『このことについて広くその罪を問いただすことになれば、世のなかで騒動となり、秀頼のためによくないことだ』と言い、まず長政は所領に蟄居させ、土方(雄久)、大野(治長)はそれぞれ他の者にその身を預けられた。」
こう書いた後に、『徳川実紀』では、家康暗殺計画について次のように解説しています。
「これは実は石田三成と長束(正家)、増田(長盛)などが計画して、(前田)利長や(浅野)長政を陥れて失脚させようとしたもので、利長・長政などは徳川家に親しんでいるので、徳川家と親密な人たちを切り離そうと計画したことが明らかであっため、(家康は)わざわざその罪を軽くしたものてある。」
続いて、『徳川実紀』には前田利長の処置についても、次のように書いてあります。
「こうして浅野(長政)、土方(雄久)などが、 それぞれを咎めを受けたうえは、利長のことをそのままにしておくわけにはいかないとなり、(家康が)まもなく加賀国へ向かわれるという噂だったので、丹羽五郎左衛門長重か願い出て先陣を承った。このことで世のなかは揺れ動き大騒ぎしたという。細川忠興をはじめ、亡くなった利家以来前田家と親交が深い大名たちは、利長のもとにこの旨を告げると、利長は大変驚いて、横山という家臣(横山長知)を(家康のもとへ)上洛させ、その上、思い当たることはない旨を繰り返し陳謝し、その(利長の)母芳春院(ほうしゅんいん)を人質として差し出すことで解決した。〔これは江戸へ諸大名が人質を差し出す初めである〕。」
この家康暗殺計画について、詳細は現在でも不明のようですが、本多隆成氏は中公新書『徳川家康の決断』p198で「ただ最近では、この暗殺計画は事実ではなく、利長方を排除しようとするために捏造されたものとみられるようになっている」と書いています。

