家康、「直江状」に激怒し上杉討伐に出陣する。(「どうする家康」168)
上杉景勝は、慶長3年(1598)1月、豊臣秀吉から会津への移封を命じられます。会津地方は、小田原征伐まで、蘆名氏を攻略した伊達政宗が支配していましたが、伊達政宗は、蘆名氏との合戦が豊臣秀吉の発した惣無事令違反とされ、会津地方を没収され、代わって蒲生氏郷に与えられました。しかし、蒲生氏郷が文禄4年(1595年)2月7日、伏見において、病死した跡を嫡子の秀行が継ぎましたが、秀行は家督を継いだ時は13歳でまだ幼いうえ家中をまとめることもできない状態であったため、会津と言う重要な地を蒲生秀行に預けておくことが不安視され、宇都宮に移されされました。そして、その跡に上杉景勝が移封されました。上杉景勝は、3月24日、会津に入りました。しかし、会津に移封して間もない8月18日に豊臣秀吉がなくなったため、9月に再び上洛しました。そして、移封まもない領国の治政のため、翌年の慶長4年9月に会津に帰国しました。
上杉景勝は、帰国早々、領国内の整備に力をいれ、鶴ヶ城の立地が山に近いことを危惧し、周囲が開けていて大川の水を利用できる神指原(こうざしはら)の地に新しい城を築くことにして築城を始めました。また、道路の整備を行い、兵糧も蓄えました。そこうした動きがやがて上杉景勝の不穏な動きとされ、家康に報告されるようになりました。
慶長5年2月には、隣国の越後の堀秀治から上杉景勝に不穏な動きありと報告されました。堀秀治は、秀吉に永く仕えた堀秀政の嫡男で、上杉景勝が会津に移ったあと、春日山城に入りました。堀秀治は、上杉景勝が会津に移る際に、翌年分の年貢米を奪って移転していったので、返還を求めたものの、上杉家から拒絶されました。こうしたこともあって、家康に上杉景勝謀反の報告をしたとも言われています。
また、上杉景勝の重臣藤田信吉が上杉家から出奔し、江戸に入り、徳川秀忠に上杉家の内情を報告しました
こうした上杉家に不穏な動きありとの報告を受けて、家康は、3月10日に伊奈昭綱を使者として上杉景勝の許に派遣し、上洛を促しました。また、相国寺の西笑承兌(せいしょうしょうたい)から直江兼続宛に書状を送り上洛するよう勧告しました。これに対する直江兼続からの返書が有名な「直江状」と呼ばれるものです。「直江状」は非常に長いものだったようです。「「どうする家康」の表現もまんざら誇張でもなさそうです。その長い「直江状」を要約したものが『山形県史』に記載されていましたので、長文になりますが、転載させていただきます。
①当国について噂があり内府様(家康)が不審の由、しかし京・伏見の間においてさえ噂が止まないもので、景勝は気にかけていないし、今後も聞えるであろう。
②景勝上洛延引について取りざたがあるとは不審である。一昨年国替え後ほどなく上洛し、昨年九月に下国し、当年正月に上洛するよう申されては、いつ領内の仕置などができようか。当国は雪国で10月から12月までは何事もできぬことは当国を知っている者に尋ねられたい。上洛延引をもって景勝逆心とは思いもっかぬことだ。
③景勝に別心ないのであれば誓詞を上げよというが、一昨年以来の数通の起請文は反古になるので重ねては不要であろう。
⑷太閤様以来景勝は律儀者といわれており、現在も変わることはない。世間の朝変暮化(ちょうへんぼけ)(朝改暮変のこと)とは違う。
⑸讒言(ざんげん)を糾明もせず景勝逆心と信じているのであれば仕方がないが、そうでないなら讒者(ざんしゃ)と対決させ是非をただせばよいことで、そうでなければ内府様が不正直になる。
⑹ 前田利長一件の解決は御威光によるものと思う。
⑺景勝逆心が明らかであるとすれば反対の意見を聞いてみるのが侍の筋目で、内府様のためでもある。その上で忠臣か佞人(ねいじん)か明らかになろう。
⑻上洛延引については以上の通りである。
⑼第ニに、武具を集めたとのことであるが、上方武士は茶碗やひょうたんを所持するが、田舎武士は槍・鉄砲・弓矢を支度するものである。その国々の風俗と思召し御不審なきように。たとえ用意したとしても、景勝の分限で何ほどかできようか。これを間題にするとは天下に似合わざる取扱いではないか。
⑽第三に道・橋・舟つくりは領主のっとめである。越後においても同様であって、境を接する者で堀監物だけが道つくりを問題にしているが、弓矢を知らざる無分別者である。景勝が天下に逆心あれば境目の道を塞ぎ防戦の支度こそすれ十方に道をつくることはないであろう。使者を遣わし、他国からの入口を見分させればすぐ合点できることである。
⑾ 高麗再征とはまことに虚説であろう。 一笑、 一笑。
⑿ 当年三月は謙信の追善法要にあたり、それが済んで夏中には上洛の考えでいたので、人数や武具なども調えさせていた。そこに景勝に別心なければ上洛するようにとのことであるが、まず讒言を糾明することこそ懇切なやり方であるのに、上洛のみ申すのは乳呑子の扱いといわれてもしかたのないことである。それをそ知らぬ顔で上洛し人と交わる当世風は景勝の身上に不相応のことであり、律儀者の名も失うことになる。讒人と対決させ糾明なければ上洛できない。景勝が間違っているか、内府様に表裏があるか世間の評判しだいであろう。
⒀とにかく景勝には別心なく、上洛もできないようにしむけられている。これは仕方のないことで、この上は内府様の分別しだいである。このまま在国し、太閤様の掟にそむき幼少の秀頼様を見放し、内府様とも対立してこちらから兵を挙げたのでは、天下の主になられても悪人の名はのがれられず、末代の恥である。このところを思慮なしに逆心することができようか。ご安心下さい。但し、讒人の申すことを実義と思うのであれば仕方のないことで誓詞も約束も要さぬことである。
⒁隣国においても景勝逆心と触廻し、あるいは城に人数を入れ兵糧を支度するなど雑説とともにあるが無分別者の仕業で聞くも入らぬことである。
⒂内々、内府様へ使者を出して申すべきであるが、隣国の讒言と家中藤田の裏切りで逆心歴然と思召されているところに音信など申しあげても不正直と沙汰されるだけであるので、右の条々を糾明中は申しあげないことにする。
⒃当世は余情かましいことであるので、誠のこともうそのようになる。申すまでもないが、天下の黒白をご存知のことであるので書き進めてきた。失礼なこと少なくないが愚意を申し述べてきた。慶長五年四月十四日 直江山城守
5月3日、この「直江状」を読んで家康は激怒して、会津出陣を決意しました。そして、6月6日、大坂城西の丸で諸将を集め、会津攻めの部署を決めました。6月14日には、伊達政宗、佐竹義宣、最上義光らが帰国しました。6月15日には本丸で豊臣秀頼に暇乞いの挨拶をして、秀頼から黄金2万枚、米2万石を拝領しました。家康は、あくまでも豊臣政権を代表して上杉景勝を成敗するという立場でした。そして、16日に大坂城を発って伏見城に入りました。伏見城に入っての鳥居元忠との別れについては、すでに書いた通りです。

