石田三成、大谷吉継を味方にして挙兵する(「どうする家康」169)
石田三成は、七将襲撃事件後、佐和山城に逼塞していました。そうした状況下、家康が上杉景勝討伐のため下向することとなり、江戸に向かいました。家康が江戸に下った隙をついて、石田三成が挙兵をします。三成の最初の味方が大谷吉継でした。
大谷吉継は、豊臣恩顧の武将の一人として他の豊臣恩顧の武将たちとともに家康率いる上杉景勝討伐軍に従軍するため、敦賀を出発しました。そして、北国街道を通り中山道の垂井宿(現岐阜県垂井町)に7月初めに到着しました。すると、そこに佐和山城の石田三成から使いがきました。大谷吉継は使いと共に佐和山城の石田三成を訪ねますが、そこで、石田三成は、家康打倒の計画を話し協力を求めました。大谷吉継は、家康とも昵懇の仲であり、今回の従軍に際しては家康と上杉景勝との間を調停しようとも考えていたと言います。そのため、石田三成に対して家康を敵にして戦うことの無謀さや計画の達成が困難であることなどを説いて、三成に計画を中止するよう諫めました。
しかし、石田三成の意思は固く計画を撤回せず、大谷吉継に計画への協力を繰り返し求めました。そのため、大谷吉継は、熟慮した結果、石田三成に協力する決意をし佐和山城に入城しました。
大谷吉継と石田三成とのやりとりについてはいろいろな説がありますが、江戸時代中期の儒学者湯浅常山がまとめた武将の逸話集である『常山紀談』巻十三の「大谷吉隆(吉継)平塚為広最後合戦和歌贈答」の中では次のように書かれています。国立国会図書館デジタルコレクションで読めるので私なりに現代語訳して紹介します。
「敦賀の城主大谷刑部少輔吉隆(吉継)は、会津征伐に従軍しようと兵を出したが、石田三成から家臣樫原彦右衛門を使いとして『是非佐和山城に来られよ、秘かに評議したい事があります』と言わせたのに対して、(大谷吉継は)「これは思いもよらないこと」だったけれど是非を論ぜずに強くお願いされたので、やむえず佐和山城にいった。三成は喜んで、今度の徳川家康を討ち滅ぼす謀(はかりごと)をはなすと、大谷は驚いて『亡き太閤殿下は、常々徳川殿が智勇を備えていることを尊敬していらっしゃった。いま、徳川家を討ち滅ぼそうなどというのは、思いも寄らないことだ。』と言うと、三成は、『私が上杉景勝と打ち合わせて、景勝が戰さの旗を揚げた。その約束を違えて景勝一人を殺させるようなことは、私の本意ではない。運を天に任せるほかはない。豊臣家の恩顧を厚く受けた身の上なんので、秀頼様の為にこのような一大事を思い立ったのだ。どうして豊臣家の恩を忘れてしまえるだろうか。』と言うと、大谷吉継は『それではしかたがない。私の命を秀頼様に捧げて、今度の戦いで討死しよう。』(と答えました。)
このように、大谷吉継は味方になることについて承諾しました。その上で、続いて、石田三成に対して二つの忠告をしました。それが次の内容です。
「(大谷吉継が)『ただ、このような一大事を思い立つのであれば考慮しておくべきことが二つある。申出を聞いてくれるか』と言うと、三成は、『どうして意見を妨げたりしよう。』と喜んだので、大谷吉継は『世間の人々は、石田殿は無礼者だと末端の人々に至るまで快くないと言いあっている。江戸の内府(徳川家康)はいま、日本一高貴な人物ですが、卑賤の者にまで礼法を用いて仁愛も深い。 人々が懐(なつ)き従う様子は、並大抵ではありません。これが一つ。次に、大事というものは智勇二つを兼備していなければ成し遂げ難い。貴殿(石田三成)は、〈智〉は備えているが、〈勇〉が足らないと思っている。今度のことは毛利(輝元)も浮田(宇喜多秀家)も、みな仮に同意している人々で、必ずしも頼みにすべき人々ではない。 近江水口の長束(正家)と謀って、内府が関東への帰途、石部(滋賀県湖南市)辺りに宿泊した時に、夜討ちをして火を放ち、十死に一生の戰いをすれば勝利は疑いなかったのに、むざむざ機会を逸してしまった。内府を関東に帰したのは、虎を千里の野に放すようなもの。この上は命を秀頼様に捧げる以外に道はない。(後略)」
大谷吉継の忠告は、三成は全体として傲慢であると悪い評判があるので、今回の計画も毛利輝元と宇喜多秀家を上に立て、三成はその下で事を進めることが大切であるというものでした。それともう一つは石田三成には、武将として必要な「智勇」のうち「勇」がないということでした。
石田三成は、この大谷吉継の忠告に従い、まず、毛利輝元や宇喜多秀家を味方につけるよう動きます。そして、かねてから親しかった安国寺恵瓊(えけい)を通して毛利輝元に働きかけ、毛利輝元は7月17日に大坂城に入城し、他の武将たちの推薦をうけて西軍の総大将となりました。

